福島発

【福島発】「復興ボランティア」に危険はないか

 8月11日付「福島民報」のトップ記事の見出しは「汚染水“土の壁”越える?」「汚染水保管 破綻の恐れ」だった。その前日8月10日は、高校野球で地元の活躍を伝える「聖光学院 愛工大名電に逆転勝ち」とともに「第一原発 汚染水くみ上げ開始」、9日は「地下水の海洋放出検討?汚染水対策委」、8日は「汚染水対策に国費検討」「海に流出1日300t」の文字が躍り、手の施しようがない放射能汚染水対策の記事が連日続いている。
 ところが、その8日の5面には驚くべき写真が掲載されていた。「復興への絆強める」との見出しで、「県外の高校生が南相馬市を訪問した」という記事。「この高校生は千葉県四街道市の千葉敬愛高校の生徒有志20人。同校の“震災ボランテイア学習”の一環で、福島県の復興に向けた取り組みを紹介する任意団体<福島学グローバルネットワーク>(本部・福島市)が協力した。生徒は六月から事前学習として、長崎大学の研究者や川内村の職員から放射線の知識や地域の現状などを学んだ」という。

 ▼マスクも付けず除染に協力
 そして、この写真に写っているのは、原発事故で立ち入りが制限されたために放置された自転車に絡みついた草を取り除いている女子高生たち。JR常磐線小高駅の自転車置き場で、女子生徒たちはマスクもつけず軍手をはめた半袖姿だった。記事にはこの場所の放射線量や健康被害への懸念などには全く触れていなかったが、危険はないのか?
 記事は続いて「生徒は小高地区を視察後、バスで川内村に移動し遠藤村長と懇談した」と書かれていた。
 川内村は住民を元の村に戻すことが「村の復興」につながる、として村長が先頭に立ち、音頭をとっている村。県外の高校生に「ボランテイア活動に協力」と称して、このような作業に携わらせるよう協力した「福島学グローバルネットワーク」という任意団体は、今年6月28日、福島県に設立申請を受理され、7月9日に県報登載されたばかりの団体。 代表者の黒澤文雄氏は、2011年8月、株式会社「全旅」や全国旅行業協会(ANTA)との会合で、福島県観光物産交流協会観光部統括部長という立場で「当協会では視察旅行や福島を応援したいと考えている団体など特定のマーケットにアプローチしています。東京都庁や東京都教育庁との連携もその一つです」「観光性の旅行はほとんど消え1.2年は難しい。危機管理を学ぶ現地視察ツアーなど特定のマーケットへの訴求が大事」などと言っていた団体だった。

 ▼若者の危険を顧みず「復興」へ
 「絆」や「復興」の名のもとに、教育現場というマーケットで、若者を危険にさらしてでも動員し、「福島の観光」「復興する福島」をアピールし、ひいては「原発の推進」を陰で操るようにも見受けられる構想。それは既に2年前から準備されていたが、それがいとも簡単に、「実現」されてしまっている。
 問題の小高区の自転車置き場は、最近人気の被災地ツァー(ダークツーリズム)で、よく案内される場所のひとつである。
 地元の案内人の一人は、「私は被災地を視察したいという人々を受け入れて案内することがあるが、そこで案内する人々はほとんど成人で、大体が中高年以上。小高駅前の自転車置き場はよく案内します。しかし、そこでは説明するだけで、自転車などには触れないように、と注意する。そこは放射線量が高いと見なければならないからで、この行動は除染の素人が素手で除染するのと同じこと。ましてや高校生に放置自転車の草や泥を払うなどさせるのは、させるべきではない」と言っている。

 ▼始まった訴訟、正体不明団体の動き・・・
 地元では今年3月11日、約800人の原告が、国と東京電力を相手どって「生業を返せ、地域を返せ!」と訴訟を起こした。東京電力福島第一原発の大事故から2年5か月。この間、政権が変わり、事故の収束の行方は全く見通しがたたず。一方で原発の再稼動への動き、そして海外への原発輸出に総理大臣自らが乗り込んでいく、という政治・経済状況の中で、水面下で練り上げた計画を一気に実行に移そうとする正体不明な団体。若者の「復興ボランティア」や「ツアー」は、これからあちらこちらで姿を見せ始めてくるような気がする。福島の人間には、気を引き締め目を凝らし、世情を見続けていくことが課せられている。(ね)


【福島発】旧満州移民と原発避難

 福島県東部を南北に走る山並みを阿武隈山地と呼ぶ。最高点は田村市と川内村を分かつ大滝根山で標高1192メートル。急峻な山は少なく、懐深くまで集落が細かく点在する。
 2011年3月11日、福島第1原発事故が起きた。放射能の雲が山里をなぞった。津島、葛尾、飯舘・・・。県民でさえよく知らなかった地名が全国に報道され、今も帰還のめどが立たない避難区域となっている。
 開拓地の多い地域だ。県農地開拓課が1973年にまとめた「福島県戦後開拓史」によると、戦後の入植者が全農家に占める割合は、津島村(現浪江町)が50・7%、葛尾村が50・1%、飯舘村が34・7%。県全体は5%だから、かなり高い。
 入植者の中心は旧満州(現中国東北部)からの引き揚げ者だった。大陸で死線をさまよい、九死に一生を得て帰国。再起を賭けて奥山に入った。60年以上かけてゼロからつくり上げた古里が放射能に奪われたのだ。
 旧満州移民と原発。国策に二度も裏切られ、再び流浪の民と化した人たちがいる。70年近い時を挟み、双方の体験を語れる人はもう少ない。貴重な証言に触れると、二つの大難の相似性に気付く。
 津島から避難した女性(82)によると、原発事故直後の混乱ぶりは、45年夏、日本人の流民があふれた旧満州にそっくりだった。
 沿岸部から内陸部への避難路となった国道114号は避難する車で埋まり、民家には水やトイレを求める見ず知らずの避難者が次々と訪れた。
 情報は錯綜していた。どこに逃げればいいのか、とどまるべきなのか、全く分からなかった。津島の放射線量は、事故直後に避難指示が出た20㌔圏の外側では最も高かったが、住民には伝えられず、線量の低い沿岸部からの避難者が集中した。
 女性は「45年夏も、へき地の開拓民に終戦の知らせはすぐ来なかった。関東軍や満鉄は真っ先に職員や家族を脱出させていたのに」と振り返る。
「敗戦と原発事故。ともに『想定外』だった」と皮肉るのは葛尾村から避難した男性(87)だ。
 「福島の沿岸部は原発で息をしてきた。国の手のひらで生きていた満州と同じ。ひっくり返ったら全部駄目になった」。盤石に見えた国策が、いずれもあっという間に崩壊した。旧満州移民では、協力に応じて国から市町村に補助金が出た。それも交付金制度が支える原発政策と重なる。
 国家発展のひずみが、時に戦争や公害となって噴き出し、犠牲者を生む。その歴史を明治以来、日本は繰り返してきた。首都圏の暮らしと産業を支えるために、遠隔地の福島県に原発が10基造られ、今、人の住めない地域が県内12市町村に広がる。
 「国の過ちで古里を失う人をもうつくらないでほしい」。2度の国策避難に遭遇した元移民たちの言葉は重い。(GO)


【福島発】風化が進む「3・11」原発事故

 東日本大震災から1年8カ月がたった。どれだけの国民が東京電力福島第一原子力発電所で起きた事故に関心を持っているだろうか。
 毎週金曜日に行われている首相官邸前の反・脱原発集会への参加者も減りつつあるようだ。日本国民は飽きっぽいのか、それとも見ぬふりをしているのだろうか。
 私たち福島県民は、現在、目には見えない放射能と闘っている。先の見えない長い闘いである。ふるさとから離れ、見知らぬ土地での仮住まい。二間しかない仮設住宅を刑務所とたとえる住民もいるほど不自由な生活を強いられている。この責任はだれにあるのか。東電それとも国か政府か、いやもしかすると我々国民にあるのかもしれない。
 長い間、原子力発電の国策を容認あるいは安全神話を信じてきたためのツケかもしれない。しかし、そのツケはあまりにも大きいものであった。バラバラになった家族、心もバラバラになった。ふるさとへの帰還を夢みる人、新しい土地での生活を考える人-それぞれだ。
 11月16日、衆議院が解散した。いよいよ選挙である。我々福島県民はエネルギー政策に重大な関心を持っている。原発については各党の主張に温度差がある。推進、維持、脱・反…選択するのは有権者である。今県民は放射能に脅えている。将来への健康不安が第一だ。子どもたちの甲状腺被害や妊婦への影響などが心配される。
 風評被害も広範囲に及ぶ。農業、漁業、観光の再生はどうなるのか、原状回復も危ぶまれている。新政権は、ぜひ脱・反原発を唱える政党に担ってもらいたい。そして一日でも早くこの国から原子力発電所をなくしてほしい。二度と福島の経験をさせてはならない。人間と核とは共存できない。
 11月初旬、法事のため娘が孫を連れて、「3・11」後、初めて帰省した。その手荷物の中には線量計が入っていて、家に入るとすぐに各部屋を測っていた。自宅は除染も終わり、事故当時の2分の1から3分の1へと線量は低下したが、高いところでは毎時0・48マイクロシーベルトある。孫たちの長期滞在は心配なので、2泊して帰った。
 孫たちが安心して福島へ来られる日は、果たしていつになるのだろうか。

(ルール-)


【写真】家の庭にある汚染土壌の仮置き場