現場から

【鹿児島発】模範囚は無実を訴え続けた・・・2度目の再審請求を棄却?大崎事件

 「無実が認められるまで死ぬこともできない」。鹿児島地裁に再審請求をした原口アヤ子さん(85)は、請求棄却の決定を聞き、そうつぶやいて両手で目を押さえた。50歳台の大半と、60歳代前半までの人生を刑務所で暮らし、傘寿を過ぎても訴え続ける女性。弁護側が求めた証人尋問もなく、求めていた検察側の証拠開示も行われないままの再審請求棄却。真実を求める老婆の声に、われわれはどう答えればいいのだろうか。

 ▼一度は再審決定
 3月6日。福井市の女子中学生殺害事件の再審請求の裏で、もう一つの再審請求が棄却された。鹿児島県大崎町で1979年、男性の遺体が見つかった「大崎事件」。死亡した男性の義姉にあたる原口さんは殺人罪などで懲役10年、共犯とされた元夫ら3人が懲役7~1年の刑を受けた。
 服役後の95年4月に再審請求した第1次請求審は、鹿児島地裁が02年3月、再審開始を決定したが、高裁がこれを取り消し、最高裁で請求棄却が確定。今回で2度目の再審請求だった。
 第2次再審では、原口さんの関与を認めた元夫らの自白の評価が争われ、弁護側は「知的障害があった元夫らは自白を誘導された」と主張。しかし、鹿児島地裁の中牟田博章裁判長は「知的能力の程度は確定審でも考慮されていた。劣っていたからといって誘導で得られた虚偽の自白とするのはあまりに乱暴だ」と一蹴した。弁護側が提出した新証拠に関連する証人尋問も一切行われず、求めていた検察側の証拠開示もされなかった。
 布川事件のように、証拠開示で隠された事実が明らかになることは多いが、今回は証拠リストさえ出なかった。再審は被告の人間性を回復し得る最後のとりでであるはずが、裁判所の考え方次第で運用が変わる不平等な事態が生じているのだ。

 ▼知的障害者を誘導?
 そもそも大崎事件は物証に乏しく、知的障害のある共犯者3人の自白が原口さんの犯行を裏付ける証拠だった。証拠開示を厳しく求める現代の裁判員裁判で裁かれていたら、無罪判決が出る可能性が高いものだ。
 鹿児島地検の関係者も、知的障害者の取り調べに配慮するようになったのは最近で、当時にそうした配慮がなされていない可能性も明かしている。また、鹿児島地検は記者クラブに対し「証拠は求められればいつでも出す」と説明していたが、実際には裁判所から証拠開示を任意で打診され、断っていたことも隠していた。
 原口さんは農家で育ち、町内の農家に嫁ぎ、3人の子どもに恵まれて家族で暮らしていた。事件がすべてを覆した。服役した刑務所では模範囚となり、何度も仮出所を勧められた。しかし、罪を認めて反省文を書くことをよしとせず、「出所したら裁判で無実を証明します」と断り続けた。10年間服役し、満期出所した。その間、心の支えだった母親を失った。
 出所後、「怒られるのが怖くて、うそを言ってしまった」と謝る元夫を原口さんは許せなかった。「あなたのせいで刑罰を受け、恥をさらして生きている。一緒には暮らせない」。そう言って離婚した。原口さんは足腰が弱り、移動は車いすが中心。年齢的にも今回が最後のチャンスと言われていた。

 ▼無実の訴えを放っておいていいのか
 再審棄却の請求が出たとき、ある女性記者がつぶやいた言葉が耳に残っている。「今回も認められなかった。原口さんは本当にやっていないのか」。
 僕ら記者はその事実を伺い知ることはできない。しかし、原口さんは逮捕から30年以上、一度も犯行を認めることなく闘っている。怒り続ける。それはエネルギーのいることだ。すべてを忘れて、第二の人生を歩んだ方が幸せだったかも知れない。それでも怒りを捨てず、訴え続けたその声を僕らはどう受け止めれば良いのか。
 弁護団のある弁護士は「ずっと無実を訴えている人が目の前にいる。これに対して何もしないというのは、刑事司法にたずさわる人間としてあり得ない」と話す。記者にも同じことが言えるのかも知れない。(F)


【釜石発】停滞する震災復興?被災地の実情を第一に

 「何も変わっていない」。この1年、かつて暮らした釜石を訪れるたびに重苦しい気持ちになる。震災から最初の冬までは、前に向かう実感があった。がれきがなくなり、仮設の住宅や店舗が建つと、人々の営みが少しずつ戻っていることを感じられた。冬を越え春になると、動きが止まってしまったように見えた。基礎を残して撤去された建物の跡にあるのは雑草だけ。津波に痛めつけられ、撤去か保存かが決まらない公共施設だけが、さらし者のように建っている。

 ▼苦難と復興の歴史
 釜石は、苦難と再生の歴史を繰り返してきた。日本の近代製鉄業の先駆けとして製鉄所とともに市街地が作られた。明治三陸津波と昭和三陸津波、チリ地震津波だけでなく、太平洋戦争末期には本州最初の艦砲射撃を受けた。そのたびに中心市街地は壊滅的な状態となったが、人々はそこから立ち上がってきた。
 戦後、製鉄業の再興とともに復興を先導する街には労働者や多くの人々が集まり、製鉄所から浜へ向かう目抜き通りには屋台の飲み屋が連なった。井上ひさしの小説「花石物語」は当時のにぎやかな釜石がモデルだ。東京の大学になじめず、屋台を引いていた母親のもとに帰ってきた少年が自伝的に描かれる。この屋台が衛生上の理由などから1950年代に集団移転した。30軒ほどの飲食店街が並ぶ通りは「呑ん兵衛横丁」と呼ばれ、カウンターに10席程度の庶民的な雰囲気で旬の味と地酒を楽しめるのが魅力だ。海産物の露天商から発展し、橋の架け替えに伴って姿を消した「橋上市場」とともに釜石の名物として長年親しまれた。
 その「横丁」も津波で流された。震災から9カ月が過ぎて、釜石駅近くの仮設飲食店街で営業を再開。店主たちも庶民的な雰囲気もそのままだが、隣近所と変わらないプレハブ造りの建物からは以前の風情が消えた。街の歴史が途絶えてしまうようで切ない。

 ▼広がっていく格差
 震災から2年となった。新聞、テレビなどの「記念日報道」は被災地に再び注目を集める一方、住民にとって最も必要な住まいと仕事の再建が一向に進まない現実を浮き彫りにする。釜石では最も早く高台への集団移転を決めた地区でさえ、予定より5カ月遅れて造成工事が始まった。自主再建が困難な被災者のための災害公営住宅は、市内25カ所に約1100戸を整備する予定だが、建設工事に着手したのは3カ所のみ。17カ所は用地交渉も始まっていない。遅れの主な理由は、土地利用や権利関係の整理、それららに伴う行政事務に時間が掛かること。今後もさらに遅れが想定されている。法律に縛られた原則主義や、旧来通りの「縦割り行政」、現場の状況に合わず使い勝手の悪い補助金?。再建に向けた動きの足かせになっているのは、現場を理解しようとしない国のお役所仕事、と指摘する声が多い。さらに、事務処理のための人材や建設資材など、被災地はとにかく足りないものばかりだ。
 今年1月、仮設住宅で暮らす人たちの話を聞いた。製鉄所で勤め上げた男性は津波で家を失ったが「同じ場所に早く家を建てたい」と語った。浸水地域でパン屋を営んでいた男性は店舗兼自宅が残ったが、周りの街が失われた。年齢のこともあり「商売が成り立つか心配で再開できない」という。釜石で勤務していた時期に通っていた洋食店の店主は改装から数年で津波に遭い、再建をあきらめて盛岡で勤め人になったと聞く。父親を亡くした公務員の女性は、母の兄弟の住む盛岡に母と暮らす家を建て、週末だけ家に帰る暮らしを続ける。
 自力で再建が可能な人とできない人、土地利用の調整が済まないと自分の家すら建てられない人、釜石を離れる人…。被災後の人々の歩みは、一律でないばかりか、時間の経過とともに格差が広がっているように見える。(山)


【福島発】旧満州移民と原発避難

 福島県東部を南北に走る山並みを阿武隈山地と呼ぶ。最高点は田村市と川内村を分かつ大滝根山で標高1192メートル。急峻な山は少なく、懐深くまで集落が細かく点在する。
 2011年3月11日、福島第1原発事故が起きた。放射能の雲が山里をなぞった。津島、葛尾、飯舘・・・。県民でさえよく知らなかった地名が全国に報道され、今も帰還のめどが立たない避難区域となっている。
 開拓地の多い地域だ。県農地開拓課が1973年にまとめた「福島県戦後開拓史」によると、戦後の入植者が全農家に占める割合は、津島村(現浪江町)が50・7%、葛尾村が50・1%、飯舘村が34・7%。県全体は5%だから、かなり高い。
 入植者の中心は旧満州(現中国東北部)からの引き揚げ者だった。大陸で死線をさまよい、九死に一生を得て帰国。再起を賭けて奥山に入った。60年以上かけてゼロからつくり上げた古里が放射能に奪われたのだ。
 旧満州移民と原発。国策に二度も裏切られ、再び流浪の民と化した人たちがいる。70年近い時を挟み、双方の体験を語れる人はもう少ない。貴重な証言に触れると、二つの大難の相似性に気付く。
 津島から避難した女性(82)によると、原発事故直後の混乱ぶりは、45年夏、日本人の流民があふれた旧満州にそっくりだった。
 沿岸部から内陸部への避難路となった国道114号は避難する車で埋まり、民家には水やトイレを求める見ず知らずの避難者が次々と訪れた。
 情報は錯綜していた。どこに逃げればいいのか、とどまるべきなのか、全く分からなかった。津島の放射線量は、事故直後に避難指示が出た20㌔圏の外側では最も高かったが、住民には伝えられず、線量の低い沿岸部からの避難者が集中した。
 女性は「45年夏も、へき地の開拓民に終戦の知らせはすぐ来なかった。関東軍や満鉄は真っ先に職員や家族を脱出させていたのに」と振り返る。
「敗戦と原発事故。ともに『想定外』だった」と皮肉るのは葛尾村から避難した男性(87)だ。
 「福島の沿岸部は原発で息をしてきた。国の手のひらで生きていた満州と同じ。ひっくり返ったら全部駄目になった」。盤石に見えた国策が、いずれもあっという間に崩壊した。旧満州移民では、協力に応じて国から市町村に補助金が出た。それも交付金制度が支える原発政策と重なる。
 国家発展のひずみが、時に戦争や公害となって噴き出し、犠牲者を生む。その歴史を明治以来、日本は繰り返してきた。首都圏の暮らしと産業を支えるために、遠隔地の福島県に原発が10基造られ、今、人の住めない地域が県内12市町村に広がる。
 「国の過ちで古里を失う人をもうつくらないでほしい」。2度の国策避難に遭遇した元移民たちの言葉は重い。(GO)


【御殿場発】現実味帯びるオスプレイ訓練「キャンプ富士」抱える御殿場市

 静岡県御殿場市の東富士演習場と隣接の米軍施設「キャンプ富士」で計画されている米軍新型輸送機MV22オスプレイの飛行訓練が現実味を帯びてきた。地元側は、昨年末の国との協議で「現段階では了承していない」としながらも、「飛行実態の継続的な検証」を条件に事実上容認する構えをみせている。若林洋平市長は近く沖縄を訪れ、騒音問題など「現地の生の声を聴きたい」考えで、訓練実施に向けての地ならしが進みそうだ。

 ▼一方的通告に反発
 キャンプ富士での訓練が国から具体的に示されたのは、昨年11月の全国知事会議の席上。当時の森本敏防衛相が個別名を挙げて計画に理解を求めた。これに対し、川勝平太知事は「地元無視の一方的な表明だ」と強く反発。「事前に何度も県には説明した」とする国側と、泥仕合のような応酬を繰り広げた。 12月に行われた地元と国との協議で、若林市長ら地元側は常駐前提の「配備」や「新たな訓練負担」を拒否する一方、従来通りのヘリの運用には柔軟な姿勢も示し、最終的に森本防衛相から「国が全面的に責任を持つ」との言質を取り付けた。安倍晋三政権発足後の今年1月には、小野寺五典防衛相からも同様の方針を確認している。

 ▼平静な市民
 市民の反応も今のところ目立った反対運動はなく、いたって平静だ。駅周辺に住む50代の女性は「頭の上を飛ぶので怖いといえば怖い。でも、ここでなければ訓練ができないというなら仕方がない。何でも反対とは言えない。御殿場には昔から自衛隊さんもいるし、米軍の基地もあるし」と話す。老舗食品店の70代の女性も「できれば来ないほうがいいけど、沖縄だけに負担をかけるのは本土としても勝手が強すぎるのでは。安全が確保されるなら受け入れるしかない」と複雑な表情だ。
 御殿場では1997年にも沖縄県金武町の米軍キャンプ・ハンセンで行われていた県道104号越え実弾射撃訓練(104訓練)の本土分散移転を受け入れている。市内の70代の男性は「訓練が増えても(市民生活は)ほとんど変わらなかった。やはり沖縄だけにおんぶに抱っことはいかない」と言う。

 ▼沖縄の負担軽減になるのか?
 だが、御殿場でのオスプレイ訓練が沖縄の負担軽減につながるかは未知数だ。実際、104訓練移転後も、金武町には別の新たな複合訓練施設が出来るなど、本質的な解決にはつながらなかった。
 今回の訓練受け入れで日米の基地共用化が一層進む懸念もあり、「キャンプ富士返還」という地元の悲願はさらに遠のくとの見方も出ている。 (空)


【岩国発】基地共存で現実路線歩む

 昨年12月13日、「錦帯橋空港」が開港した。米海兵隊岩国基地の滑走路を民間利用するもので、全日空が羽田まで150人乗りのジェット機ボーイング737型機(全日空)を1日4往復させている。
 地元では「開港」ではなく、「再開」と言う。戦後まもない1952年から国際線が発着、マリリン・モンローやインドのネール首相が降り立った歴史があるからだ。48年ぶりの空港再開に経済界や市民は沸き立ち、開港1か月の平均搭乗率は75・9%と、まずは順調な滑り出しとなった。

 ▼「再開」の条件
 岩国の歴史を振り返れば、戦前に旧日本海軍が航空隊を置き、海軍兵学校分校が開設された。終戦後は進駐軍が接収、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、インド、アメリカ軍が利用、朝鮮戦争当時は頻繁に攻撃機が出撃したこともある。
 戦後の民間空港時代を除き、市民にとって市街地中心部に広大な面積を持つ基地はいわば迷惑施設。高度経済成長期も沿岸コンビナート群は航空制限が設けられ、高層プラントが建設できず、経済的発展を阻害された。
 そこで、市街地から幾らか遠ざけ、墜落の危険性や騒音被害を低減しようと考えられたのが、滑走路の沖合1000メートル移設だった。この計画に市民は民間空港再開の夢を乗せた。だが、その夢は国の政策の中で浮かんでは消える泡沫のように翻ろうされた。
 だから、「再開」と言われても半信半疑の市民が大半だった。何か重大な条件が背負わされているのではないか。結果としては、その通りではあった。米軍再編計画の中で日米両政府は艦載機59機を厚木から岩国に移す計画を示した。
 この計画を巡り、市民の意見は二分したが、2008年2月の市長選で衆院議員を辞して出馬した容認派の福田良彦氏は反対派現職の井原勝介氏を接戦で破り、昨年2月の市長選では井原氏に大差を付け、2選目を果たした。福田氏は現実路線を選択し、巨額赤字の愛宕山開発事業跡地を国に売る方針を決め、大規模運動場を整備するなどの振興策を国から引き出した。市民は民間空港実現が本物になったことも評価した。

 ▼「ここは沖縄と違うけえ」
 昨年、岩国基地ではオスプレイの陸揚げと初飛行、F35配備計画浮上など新たな負担増となりそうなニュースが続いたが、反対運動は盛り上がらない。デモ隊に市民の大半は「よその人がやっていることじゃ」と関心を持たない。そればかりか、怪しくなった日中の国際情勢を背景に市長に飛行容認を求めるオスプレイ容認デモまで行われた。「ここは沖縄とは違うけえね」と生まれて初めてデモに参加した地元主婦の言葉は印象的だった。
 県内唯一の民主議員を選出してきた山口2区は昨年末の衆院選で安倍首相の実弟である自民新人の岸信夫氏を圧勝させ、保守色を一段と深めながら、基地と共存していく道を探っている。(A)


【福井発】まかり通る「経済は命より重し」論? 原発立地地域から

 原発論争の一つに「地元」論争がある(あった)。原発「立地地元」と、その近隣地域で事故時などに過酷な被災を免れないであろうと予想される「被害地元」である。原発最多立地地域である福井県の大飯原発再稼働を巡って、「私たちは福井の原発の被害地域です」と、滋賀・京都の知事を初め愛知・岐阜からも声が上がった。その先頭を切っていた滋賀の嘉田知事は、衆院選の折に日本未来の党を設立、党首として戦ったが小沢一郎に見事に利用された顛末は周知のところだ。

 ▼「被害地元」の複雑な感情
 この地元論争の折、立地地元である福井県内では複雑な感情が渦巻いていた。大都市の電力消費地は使うだけ使っておいて危険となると止めろというが、こっちは供給地として不安に耐えてきたのに悪者扱いされている……というわけだ。悪者扱いされるのはたまらん、という感情には豊かな大都市の優越感に対する劣等感といった構図も透けて見える。
 実際、原発が集中する敦賀市・美浜町・おおい町・高浜町は、福井県南部の若狭地区にあって、財政の厳しい地域であった。そこにつけ込まれた。福島も新潟もその他いずれの地域の原発も立地時の事情はそう変わらないはずだ。そこに原発マネーはじゃぶじゃぶと注がれた。町づくりも住民の雇用も原発が取り込んできた。2012年においてさえも、敦賀市では高卒者の就職先は全体の4割が原発関連という情報もあったほどである。
 こうなると「3.11」後の立地地元では原発について自由にものが言えない状態となる。賛成と言えばこの期に及んでなんということをとなり、反対を声高に言おうものなら袋叩きにあうか「事情も分からんくせに」と罵られるのがオチといった空気が支配しているからだ。

 ▼なぜ出ないエネルギー転換政策
 こうした電源立地地域からなぜ原発以外の再生可能エネルギーを含む新たなエネルギー転換政策の提案なり、試行的な取り組みが出てこないのか不思議な気がする。雇用の転換も含めて国に先んじることができない自治体の舵取りが、もし再びフクシマ的事故が起こってしまったとしたら真っ先に過酷事故の犠牲の再来地として、住民を巻き込むことは明らかなのに、首長も議会も国と電力会社におすがり状態である。ま、県にしても地元の判断が求められたときに知事一任で議論を放棄してしまった県議会であった。結果が再稼働容認であろうとも住民代表として議会機能を放棄してしまったことの無責任さは、命に関わる事案であることを考えれば、究極の住民軽視といってよい。しかしこれすらも責められないのは、国が地元判断を重視するなどと言いながら、めいっぱい圧力をかけて国策でありながら国としての責任逃れをしてきたことにある。

 ▼疑わしきは罰せず???
 市長5期めで市政の舵を取る河瀬敦賀市長は、地元原発直下の地層が活断層との判断が濃厚となったとき、「疑わしきは罰せずの原則がある」との発言で疑わしいからといって廃炉にするな、とのたまわったのであった。人が人を罰する事態とまるで次元の違う原則を持ち出して、放射能も疑いありくらいで処罰するなというわけである。福島の事故がまるで教訓になっていない、原発=経済ありきしか考えられない首長をいただいた地域の不幸は現在のこの国の縮小とも映る。
 原発推進だけで5期を勝ち取ってきた市長に託す「民意」とは。おおい原発再稼働を実現した野田首相も「生活第一」とし、「命」への配慮はなかった。そしていま、安倍内閣は「一に経済、二に経済」である。
 「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という憲法第13条はすっかりうっちゃられた感じである。
 命の軽さに引きかえて、生きることのしんどさ重さは増すばかりとなる。(羊)


【小豆島発】何のため? 渓谷美破壊のむだづかい… 小豆島で続くダム建設と闘い

 小豆島に寒霞渓という紅葉の名所があることをご存じだろうか。切り立つ岩、猿が走り回る。人里に近い渓谷美が売りだ。振り向けば波静かな瀬戸内海が一望できる。
 寒霞渓をシャットアウトするように、コンクリートの堰堤がほぼ完成している。内海ダム。堰堤の長さは423㍍、四国の水がめ早明浦ダムの400メートルよりも長い。計画されている総貯水量は106万立法㍍。早明浦の300分の1だ。この程度の貯水量の池は香川にはいくつもある。185億円という総工費をなんのためにかけたのか。コンクリートの壁で景観を台無しにするためか。それともつくることで利益になる誰かいるのか。考えてみたい。

▼「見直し」の中での建設
 ダムの地元小豆島町神懸通りには「寒霞渓の自然を守る連合会」(代表山西克明さん)がある。「利水と治水を目的にして香川県が計画しているダムだが、そのどちらにも役にたたないだけでなく、寒霞渓の景観を台無しにする」と反対運動を続けている。月1回の高松市の香川県庁前での宣伝行動もこの1月7日の第1月曜日で93回目を迎えた。
 ダムはほぼ完成して、昨年12月下旬から試験湛水がはじまっている。実は民主党政権の公約違反第1号がこの内海ダムなのだ。
 09年の政権交代のあと前原国交相が全国のダム見直しを宣言した。なかでも内海ダムへは同年12月に視察に訪れ、香川県に計画見直しを要請した。県知事はこれを拒否、国の補助金未定のまま本体工事をスタートさせる。
 国が10年度の補助金(負担金)をどうするのかに焦点は移った。10年3月、住民は長野県の浅川ダム、熊本の 路木ダムの市民運動と手を携えて前原大臣への面会を要請した。3月25日は国交省政務官面会までいったが、翌26日に前原大臣は「県の判断に文句はつけられない」とかいってほぼ全額の補助金を発表した。
 
▼裁判で反対運動
 住民たちはこの間、月1回の県庁前宣伝を続け、事業認定取り消し訴訟はじめ法的手段に訴え勉強会やアピールする集会と力を入れてきた。県は裁判では必要な資料を出さないなど引き延ばしをはかってきた。「必要性の科学的根拠を説明できないのに一方的に」工事を進めてきたのだ。
 利水でいえば97年に完成した吉田ダム(小豆島町福田)が210万立法メートルの有効貯水量をもち、渇水時も断水の心配はなくなっている。治水でいうと県が主張する1974(昭和49)年、76(昭和51)年の水害はダムの流域の別当川ではなく別の水系の被害をさしており、ダムよりも河川改修が必要であることを住民は訴えてきた事情もある。さらに南海トラフ巨大地震が起きればどうなるかという新しい心配もある。
 5月に予定されている「原告側証人尋問」には志岐常正京大名誉教授(地質学)、丸山博室蘭工大大学院教授(公害システム専攻)、水源連代表らが準備を進めており、自公政権の公共事業ばらまき方針に歯止めをかける意味でもしっかり戦って科学的根拠のなさを明らかにしていかなくてはならない。
 どうみてもそんなに必要ではないと思われるダム建設がなぜ進むのか。「結局、土建業者のためのコンクリート無駄遣いのためでしかないのではないか」?外からはそんな声も聞かれる。新内閣で公共事業が息を吹き返すとされる昨今。小さな島のダム建設は改めて問題になる。
 「県庁前宣伝にとりくむメンバーは平均年齢82.3歳、地元の若い人はカンパには応じてもらっているがダム賛成の企業で働かなくてはいけないから声は上げにくい。それでも高松で応援していただいている市民のお方とも一緒に水溜めるなという運動をすすめる。がんばりますよ」と山西代表は意気軒昂である。(羽)


【沖縄発】無法地帯で憲法を想う

 昨年末、忘年会で乾杯し、1杯目のジョッキを空けた直後。デスクから電話が入った。嫌な予感は的中。「那覇市で飲酒米兵の車が一方通行を逆走、バイクの男性に衝突してけがをさせた」という。「またか」と悪態をつきながら現場を探しに出ると、店からわずか300mの所だった。
 卑劣極まりない女性への集団暴行事件が10月に起き、米軍が夜間外出禁止、基地外飲酒禁止を発令しているさなかだ。ちょうど前日には現場から100m余りのアパートで、20代女性の部屋をベランダからのぞいた住居侵入容疑で米兵が逮捕された。こんな県庁所在地が、本土のどこにあるだろうか。
 「第2次安倍政権が発足し、改憲の危機が迫っている」。それはそうなのだが、沖縄は戦後68年間、憲法どころかこういう無法地帯の中にある。作家の目取真俊さんら多くの識者が指摘していることだが、あまり浸透しないので繰り返したい。
憲法9条は、日米安保があったからこそ存在できた。「米軍に日本を守ってもらう」代わりに、沖縄の彼ら彼女ら、一人一人の被害者をいけにえとして差し出してきた。
 米軍が昨年10月、垂直離着陸輸送機オスプレイを沖縄に強行配備した後に聞いた、ある女性の言葉が頭から離れない。現場で久しぶりに会い、話しかけようとすると、「取材はもう、本土の人にしてください」と、はっきり拒絶された。もう沖縄は基地はいらないと言っている。残る問いは、本土がどうするかだけだ。基地を引き受けるのか、それとも安保をやめるのか。東京出身のお前は、ここで何をしているのだ?。
 彼女は15年近く、私に普通に接してくれていた。鳩山政権が普天間飛行場の移設先を再び県内に決め、さらにオスプレイが配備され、多くの県民の心の中で針が振り切れた。臨界点を超えた本土への怒りを、肌で感じている。保守系で官僚出身の仲井真弘多知事さえ、「差別」を指摘している。
 墜落を繰り返してきたオスプレイは、きょうも県民の頭上を飛ぶ。その恐怖を訴え、日米両政府に配備撤回を求めるため、1月27日に100人以上の大要請団が東京に行く。本土ではあまり報じられていないと思うが、沖縄の全市町村の首長や議長、自民党から共産党までの県議も参加する、空前の規模だ。午後3時45分に日比谷野外音楽堂を出発して、銀座をパレードする予定。近くの方はまず一緒に歩いて、憲法と安保と沖縄を考えてみませんか。(岳)


【写真説明】オスプレイ配備に抗議する座り込みで、普天間飛行場のゲートを封鎖した市民。排除する警官と市民の双方から、「なぜ県民同士が争わなければならないのか」との嘆きが漏れた=2012年9月27日、沖縄県宜野湾市


【大津発】小沢さんを使いこなせなかった!嘉田知事の「混乱」

 総選挙が終わり正月休みも明けた1月4日、滋賀県の嘉田由紀子知事が政治団体「日本未来の党」の代表を辞任することを正式発表した。予算編成など県政の課題が山積する中、滋賀県庁や「国政政党役職の兼務解消を求める決議」を突きつけてきた滋賀県議会には「やれやれ」といった声が広がった。
 だが、「脱原発」ではなく、原発から期間を決めて卒業するという「卒原発」の姿勢や、「地方自治の課題は国政で解決」といった嘉田知事の政治姿勢に対する県民の不信感は簡単に拭いきれそうにはない。
 知事の国政進出という突然の出来事から1カ月余り。「日本未来の党」も総選挙で惨敗して結成1カ月で分裂するというありさま。改めて地方自治と知事職のあり方が問われる「事件」であった。

▼環境と政権
 日本一大きなびわ湖をかかえる滋賀県。かつては農業県を誇り、農協連会長出身の谷口久次郎知事(在任1958-1966年)が県内一の大中の湖を干拓して1000㌶の農地を開拓して見せたこともある。がだ、干拓が完成したころから減反農政が始まり、県内は工業団地や京阪神のベッドタウンと化した。
 嘉田さんは、京都大学大学院出の環境社会学者で、元滋賀県立琵琶湖博物館研究顧問だったが2006年、「新幹線新駅の建設凍結、県内に計画されているダムの凍結見直し」などを主張して滋賀県知事選に出馬、國松善次前知事を破って当選。開発オンリーの県政から自然保護重視の県政に転換するやに見えた。
 しかし、自民党などの議会勢力に新幹線新駅やダム建設の凍結姿勢はぐらつき、結局は県民世論に押されて新幹線新駅は建設中止となったものの、嘉田知事の歯切れの悪さだけが後に残った。そして、2010年7月の知事選で自民党前代議士の上野賢一郎氏らを破って再選、2012年に未来政治塾を開講した。
 「リニアモーターカーによる中央新幹線が完成すれば米原駅と京都駅の間に新駅が必要」と述べ、物議をかもしたり、大飯原発再稼働反対についての関西首長の広域連合が事実上容認に転換していく中で、同年11月に新党「日本未来の党」を結成すると発表。「国民の生活が第一」代表の小沢一郎氏が「国民の生活第一」を解党したうえで、党ごと「日本未来の党」に合流した。
 ところが、総選挙で61議席を持っていた「未来の党」は、7分の1の9議席に減らして惨敗した。選挙前には「小沢さんを使いこなす」といった嘉田さんだったが、代表辞任会見では、「小沢一郎さんを使いこなせなかった」とこぼした。「利用されて捨てられた…」との批判もあって、政権獲得の厳しさを嫌というほど味わったに違いない。

▼びわ湖保全とは何か
 びわ湖を抱える滋賀県では歴代の知事が「びわ湖の保全」を命題として取り組んできた。だが、今、県民の大多数が望む「脱原発」の願いをどうするのか、嘉田知事のこれからの大きな課題となるだろう。
 近畿1400万人の水道水の水源湖のびわ湖は、原発銀座と呼ばれる若狭湾原発地帯から40~60㌔の範囲にある。福島市や郡山市の福島県中通りから福島原発の距離と同じくらいの位置。そこに400kBq/㎡の放射性物質が一様にびわ湖にそそぐと、湖水の放射性物質濃度は平均10Bq/kgになる試算。現在の飲料水の食品基準とほぼ同じ値だが、それが湖魚に蓄積されると2000倍の放射能値となり、食品基準100Bq/kgをはるかに上回って湖魚は食べられなくなる。
 「近畿の水源・びわ湖を若狭原発から守れ」「原発再稼働反対・脱原発」の声は滋賀県はじめ近畿全域に広がっている。私も「いのちとびわ湖を放射能から守る輪(原発問題住民運動滋賀県連絡会)」のメンバーの一人として運動し、嘉田知事らに「原発からの撤退と自然エネルギーへの転換」を要請している。

▼集会に退去要求
 だが、嘉田知事は滋賀県庁前でのデモ集会に対して「県庁敷地内での集会禁止」の規則(滋賀県庁舎等管理規則・昨年9月18日公布)をたてに、県庁前噴水のぐるりを柵で囲んで集会の退去を通告してきている。
 これまで2カ月に一度、昼休み時間帯での県庁前集会を開いてきた滋賀県年金者組合や高齢者団体、県労連などが「県庁前は県民のもの。集会の自由を認めよ」と抗議している。
 このような混乱を今後も繰り返すならば、国民、県民の平和・護憲の願いに背を向けるものであり、嘉田知事の政治姿勢はますます厳しく問われることになるだろう。(KS)


【写真】滋賀県庁前をデモする「脱原発連」のひとびと(2012年10月)

(注)
 Bq/kg=キログラムあたりベクレル
 kBq/㎡=平方メートルあたりキロベクレル

「いのちとびわ湖を放射能から守る輪(原発問題住民運動滋賀県連絡会)」に参加している脱原発運動のおもな県内団体は次の通り。
  ・原発ゼロをめざす湖西ネット、
  ・ばいばい原発・湖西の会
  ・原発ゼロの会・守山、原発からの撤退を求める湖南市民の会
  ・ばいばい原発守ろうびわ湖住民運動連絡会
  ・さよなら原発実行委員会
  ・原発即0パレードin湖東実行委員会
  ・ひこね子どもと明日を守る会
  ・いますぐ原発ゼロへ彦根実行委員
  ・湖北原発ゼロの会


【広島発】上関原発とオスプレイ監視が課題?安倍政権で始まる危険

 憲法改悪、原発容認を公言する政治勢力をバックにした安倍晋三政権の登場で広島では早くも二つの問題に直面している。
 一つは中国電力が建設を目指す上関原発計画だ。3・11前の原発の新増設計画は全国で12基。うち原子炉設置許可を受けて建設中が中電島根3号機など3基、着工前が上関1・2号機など9基で上関は最も計画が進んでいた。民主党政権は2030年代の原発ゼロ実現のため、本体工事中の原発の工事再開は認めたが、着工前の原発を含め、新増設は原則認めない方針を示していた。しかし、安倍氏は政権に着く前の21日上関の地元・山口県庁で記者会見し、2030年代原発ゼロ方針の見直しを表明。組閣後、茂木敏充経産相が前政権の方針は「再検討が必要」と明言した。上関は新設が認められるとしたら最有力とみられる。
 上関計画をめぐっては、中電が建設予定地の公有水面埋め立て免許を得て、埋め立てに着手したが、予定地対岸の祝島住民らの抗議行動で工事が停滞する中で3・11を迎え、工事が中断。埋め立て免許期限切れ直前の12年10月5日に免許の延長を山口県知事に申請していた。延長申請に対して当時の藤村修官房長官と枝野幸男経産相は、建設を認めない方針を示し、山本繁太郎山口知事も「申請は許可できない」と明言していた。逆風下の中電の延長申請は、原発容認の自民党への政権交代で風向きが変わるまで現状維持を狙ったとみられていた。
 自民党圧勝の選挙後、山本知事は県議会で「考え方は政権交代の有無にかかわらず変わらない」と述べたものの、別の質問には「新たな原発建設をどうするか国の責任で示していただきたい」と微妙な姿勢を示した。県の最終決定は年明けとみられる。
 埋め立て工事をめぐって中電は抗議の島民ら4人に計4800万円の損害賠償を求めるなど反対運動を「恫喝する」訴訟を相次いで起こしている。権力や企業が反対活動を抑え込むためのスラップ訴訟だ。裁判所の姿勢をみると、山口地裁が11年3月25日に陸域の工事妨害の場合1人・1団体あたり1日70万円の制裁金の支払いを命じ、12年9月、最高裁が海域の埋め立て工事妨害禁止を求めた仮処分を認めるなど3・11後も中電勝訴の判断が続いている。延長が認められれば、計画反対運動は非常に厳しい状況に直面する。
 もう一つの問題は米軍岩国基地を中継基地とする垂直離着陸機MV22オスプレイの本土訓練が本格化することだ。2012年だけで2回も墜落事故を起こし、専門家も欠陥機と認めるオスプレイの訓練が、住民の安全と安心を脅かすことになるのは必定だ。10月に島ぐるみの反対を押し切って米軍がオスプレイを強行配備した沖縄では、配備前に結ばれた安全確保のための日米合意に反する飛行が相次いでいる。
 広島県内では2012年上半期に米軍機の低空飛行の目撃件数が昨年同期の1.5倍になり、調査を始めた1997年度以降で最多となった。広島県北部と島根県にまたがるエリア567と呼ばれる米軍の訓練空域下や広島県北部を横切るブラウンルートと呼ばれる飛行コース下では11年から12年にかけて小学校や子ども園の上空をジェット機が低空飛行し、子どもたちがおびえて床に伏すなどの被害が続いている。オスプレイの低空飛行訓練は危険と恐怖を倍加することになるだろう。
 安倍政権下で始まる2つの動きを監視するメディアの役割が問われる年になると思っている。
(堺真知)