現場から:福島発

【福島発】旧満州移民と原発避難

 福島県東部を南北に走る山並みを阿武隈山地と呼ぶ。最高点は田村市と川内村を分かつ大滝根山で標高1192メートル。急峻な山は少なく、懐深くまで集落が細かく点在する。
 2011年3月11日、福島第1原発事故が起きた。放射能の雲が山里をなぞった。津島、葛尾、飯舘・・・。県民でさえよく知らなかった地名が全国に報道され、今も帰還のめどが立たない避難区域となっている。
 開拓地の多い地域だ。県農地開拓課が1973年にまとめた「福島県戦後開拓史」によると、戦後の入植者が全農家に占める割合は、津島村(現浪江町)が50・7%、葛尾村が50・1%、飯舘村が34・7%。県全体は5%だから、かなり高い。
 入植者の中心は旧満州(現中国東北部)からの引き揚げ者だった。大陸で死線をさまよい、九死に一生を得て帰国。再起を賭けて奥山に入った。60年以上かけてゼロからつくり上げた古里が放射能に奪われたのだ。
 旧満州移民と原発。国策に二度も裏切られ、再び流浪の民と化した人たちがいる。70年近い時を挟み、双方の体験を語れる人はもう少ない。貴重な証言に触れると、二つの大難の相似性に気付く。
 津島から避難した女性(82)によると、原発事故直後の混乱ぶりは、45年夏、日本人の流民があふれた旧満州にそっくりだった。
 沿岸部から内陸部への避難路となった国道114号は避難する車で埋まり、民家には水やトイレを求める見ず知らずの避難者が次々と訪れた。
 情報は錯綜していた。どこに逃げればいいのか、とどまるべきなのか、全く分からなかった。津島の放射線量は、事故直後に避難指示が出た20㌔圏の外側では最も高かったが、住民には伝えられず、線量の低い沿岸部からの避難者が集中した。
 女性は「45年夏も、へき地の開拓民に終戦の知らせはすぐ来なかった。関東軍や満鉄は真っ先に職員や家族を脱出させていたのに」と振り返る。
「敗戦と原発事故。ともに『想定外』だった」と皮肉るのは葛尾村から避難した男性(87)だ。
 「福島の沿岸部は原発で息をしてきた。国の手のひらで生きていた満州と同じ。ひっくり返ったら全部駄目になった」。盤石に見えた国策が、いずれもあっという間に崩壊した。旧満州移民では、協力に応じて国から市町村に補助金が出た。それも交付金制度が支える原発政策と重なる。
 国家発展のひずみが、時に戦争や公害となって噴き出し、犠牲者を生む。その歴史を明治以来、日本は繰り返してきた。首都圏の暮らしと産業を支えるために、遠隔地の福島県に原発が10基造られ、今、人の住めない地域が県内12市町村に広がる。
 「国の過ちで古里を失う人をもうつくらないでほしい」。2度の国策避難に遭遇した元移民たちの言葉は重い。(GO)