現場から:釜石発

【釜石発】停滞する震災復興?被災地の実情を第一に

 「何も変わっていない」。この1年、かつて暮らした釜石を訪れるたびに重苦しい気持ちになる。震災から最初の冬までは、前に向かう実感があった。がれきがなくなり、仮設の住宅や店舗が建つと、人々の営みが少しずつ戻っていることを感じられた。冬を越え春になると、動きが止まってしまったように見えた。基礎を残して撤去された建物の跡にあるのは雑草だけ。津波に痛めつけられ、撤去か保存かが決まらない公共施設だけが、さらし者のように建っている。

 ▼苦難と復興の歴史
 釜石は、苦難と再生の歴史を繰り返してきた。日本の近代製鉄業の先駆けとして製鉄所とともに市街地が作られた。明治三陸津波と昭和三陸津波、チリ地震津波だけでなく、太平洋戦争末期には本州最初の艦砲射撃を受けた。そのたびに中心市街地は壊滅的な状態となったが、人々はそこから立ち上がってきた。
 戦後、製鉄業の再興とともに復興を先導する街には労働者や多くの人々が集まり、製鉄所から浜へ向かう目抜き通りには屋台の飲み屋が連なった。井上ひさしの小説「花石物語」は当時のにぎやかな釜石がモデルだ。東京の大学になじめず、屋台を引いていた母親のもとに帰ってきた少年が自伝的に描かれる。この屋台が衛生上の理由などから1950年代に集団移転した。30軒ほどの飲食店街が並ぶ通りは「呑ん兵衛横丁」と呼ばれ、カウンターに10席程度の庶民的な雰囲気で旬の味と地酒を楽しめるのが魅力だ。海産物の露天商から発展し、橋の架け替えに伴って姿を消した「橋上市場」とともに釜石の名物として長年親しまれた。
 その「横丁」も津波で流された。震災から9カ月が過ぎて、釜石駅近くの仮設飲食店街で営業を再開。店主たちも庶民的な雰囲気もそのままだが、隣近所と変わらないプレハブ造りの建物からは以前の風情が消えた。街の歴史が途絶えてしまうようで切ない。

 ▼広がっていく格差
 震災から2年となった。新聞、テレビなどの「記念日報道」は被災地に再び注目を集める一方、住民にとって最も必要な住まいと仕事の再建が一向に進まない現実を浮き彫りにする。釜石では最も早く高台への集団移転を決めた地区でさえ、予定より5カ月遅れて造成工事が始まった。自主再建が困難な被災者のための災害公営住宅は、市内25カ所に約1100戸を整備する予定だが、建設工事に着手したのは3カ所のみ。17カ所は用地交渉も始まっていない。遅れの主な理由は、土地利用や権利関係の整理、それららに伴う行政事務に時間が掛かること。今後もさらに遅れが想定されている。法律に縛られた原則主義や、旧来通りの「縦割り行政」、現場の状況に合わず使い勝手の悪い補助金?。再建に向けた動きの足かせになっているのは、現場を理解しようとしない国のお役所仕事、と指摘する声が多い。さらに、事務処理のための人材や建設資材など、被災地はとにかく足りないものばかりだ。
 今年1月、仮設住宅で暮らす人たちの話を聞いた。製鉄所で勤め上げた男性は津波で家を失ったが「同じ場所に早く家を建てたい」と語った。浸水地域でパン屋を営んでいた男性は店舗兼自宅が残ったが、周りの街が失われた。年齢のこともあり「商売が成り立つか心配で再開できない」という。釜石で勤務していた時期に通っていた洋食店の店主は改装から数年で津波に遭い、再建をあきらめて盛岡で勤め人になったと聞く。父親を亡くした公務員の女性は、母の兄弟の住む盛岡に母と暮らす家を建て、週末だけ家に帰る暮らしを続ける。
 自力で再建が可能な人とできない人、土地利用の調整が済まないと自分の家すら建てられない人、釜石を離れる人…。被災後の人々の歩みは、一律でないばかりか、時間の経過とともに格差が広がっているように見える。(山)