渡良瀬発:現場から

【渡良瀬発】田中正造の思想を現代に生かす

 足尾銅山鉱毒事件の解決に生涯を捧げた明治期の代議士、田中正造(1841-1913)が今、あらためて注目を集めている。没後100年の節目を迎えたことに加え、日本の「公害の原点」といわれるこの事件をめぐり時の政府を鋭く批判した正造の言葉が、今の日本社会の構造的問題を言い当てているからだろう。 「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」 この言葉に代表される正造の訴えは、東京電力福島第一原発事故、さらにはチッソ水俣病、沖縄の米軍基地問題などにもピタリと当てはまる。経済や政府の利益を優先し、人の命をないがしろにするこの国の社会システムは、100年経った今もまったく変わっていないのだ。

 ▼現場から学び進化した
 正造は江戸末期、栃木県安蘇郡小中村(現在の佐野市)の名主の長男として生まれた。栃木県議会議員を経て、第一回衆議院議員選挙から6回連続で当選。小柄でひょうひょうとした風貌と辛辣なヤジで全国に名を馳せ、応援演説などにも引っ張りだこだったという。
 教科書などからは、強制破壊された旧谷中村(現在の栃木市)の村民とともに闘った「市民派」のイメージが強いものの、最初からそうではなかったようだ。「押し出し」と呼ばれる被害農民の集団請願には当初否定的で、政治家として自らの力で政府を動かし問題解決を図ろうとした。
 しかし当時、足尾銅山は「富国強兵」「殖産興業」の象徴。戦費調達、外貨獲得の有力な手段だった。そのため政府は利益・国益を優先し、無理な操業を続ける古河市兵衛ら銅山側を擁護、鉱毒を垂れ流された渡良瀬川下流域の被害民の苦しみは無視し続けた。さらに被害農民の抗議活動を弾圧したり、公害・加害事件を洪水・治水問題にすりかえ、旧谷中村民を強制移住させて遊水地化する計画を立てた。こうした政府の姿勢、ごまかしに正造は怒り、生き方を変えていった。
 戦争に対する姿勢も、鉱毒事件闘争を経て変わった。日清戦争前には国会で賛成演説を展開したが、日露戦争を前に「非戦論」、その後軍備全廃による「無戦論」へと発展させた。聖書を読み、鉱毒事件闘争を支援するキリスト教関係者との交流も影響したとされるが、最大の理由は、国益のためとする戦争が、市井の人たちを苦しめるものでしかないことに気付いたからだった。
 国家間の紛争は腕力ではなく、話し合いで解決するべきだと主張。外交費を増やし日本の若者が平和の伝道者として世界で活躍することまで提言した。100年以上も前に、平和憲法の思想を確立していた。思想家とも言われる正造だが、頭で考えたわけではなく、失敗を経て成長し続けた。

 ▼憲法を生かし行動した
 佐野市郷土博物館にある正造関連の展示室には、明治天皇への直訴状の写しなどとともに、細い糸でつながれた新約聖書(マタイ伝)と帝国憲法が遺品として展示されている。正造が信玄袋に入れて常に持ち歩いていたものだ。聖書を「心」の支え、憲法を「行動」の支えとし、憲法が政治家の権力乱用を制限する「立憲主義」の視点を持ち合わせていたことがうかがえる。帝国憲法は不十分ながら、信教の自由や言論の自由、集会・結社の自由、請願権などを保障しており、正造はこれを存分に活用し鉱毒事件解決に奔走していたのだ。
 没後100年のことし、10月に「記念祭」が予定されるなど、地元では顕彰事業が展開されている。ただ「郷土の偉人」として称え、観光目的化する現状に懸念の声もある。大切なのは、正造の思想を現代の課題に照らし、一人一人が問題意識を持って行動すること。それこそが「顕彰」であり、志半ばで病に倒れた正造が最も望んでいることだということを忘れてはならない。(洋)


【写真説明】ひもでつながれた帝国憲法とマタイ伝の合本=佐野市郷土博物館


【写真説明】ガラスに反射した肖像画と、非戦論を記した正造の直筆扇=佐野市郷土博物館