ニュースと論評:憲法メディアウォッチ

マスコミは憲法にどう向き合ってきたか

  目立つ「護憲派」メディアの曖昧さ 

-マスメディアは憲法にどう向きあってきたか

     憲法メディアフォーラム  丸山 重威

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が7月5日、国際世論の反対を押し切ってミサイル発射実験をしたことに対し、額賀防衛庁長官は「「国民を守るために必要なら、独立国家として限定的な攻撃能力を持つことは当然だ」と発言、麻生太郎外相も「核を搭載したミサイルが日本に向けられるなら、被害を受けるまで何もしないわけにはいかない」と述べ、安倍晋三内閣官房長官もこれに同調した。 
  もともとこのミサイル発射自体について、韓国大統領府は「テポドン発射は、特定の国を狙ったわけではない」「日本のように未明から大騒ぎする必要はない」と主張していたが、この発言に、「日本の侵略主義的傾向を表したもので、強く警戒せざるを得ない」と表明、「先制攻撃のような危険で挑発的妄言で朝鮮半島の危機をさらに増幅し、軍事大国化の名分にしようとする日本の政治指導者たちのごう慢さと妄言には強力に対応する」と警告した。また、中国外交部も姜瑜・報道官が「国際社会の外交努力を妨害する行為だ」と指摘し、「国際社会が全力で外交努力に奔走しているときに、火に油を注ぐ行為であり、無責任極まりない。外交努力を妨害するし、北東アジアの緊張を増す」と強く非難した。 

 しかし、日本のメディアはどうだったろう?
読売新聞の7月11日付社説は「脅威を直視した論議が必要だ」と題して、額賀長官、安倍長官の問題提起を全面的に支持、「能力がなければ、座して自滅を待つことになる。いつまでも権利はあるが能力は未整備のままでいいのか。安全保障環境の変化に対応した議論を深めるべきだ」と主張。産経新聞も額賀発言を支持した。
 一方、朝日新聞は12日付社説で、「挑発に過剰反応し、短兵急に方針転換へ突き進むようなことがあってはならない」「あくまで外交的な決着をはかるのが日本の戦略」と述べたが、「日本が攻められた時は、自衛隊がもっぱら本土防衛の役割に徹し、敵基地などをたたくのは米軍に委ねる。これが安全保障の基本」とし、毎日も「有事の際には、自衛隊が守りを固め、攻撃は米軍に任せるというのが、日本の防衛戦略」と述べている。
 確かに、安保条約の規定はそうだろう。しかし、問題は米軍がやるのなら仕方がない、それでいい、と考えるかどうかである。そう考えているのではないのかもしれない。だが、敵基地を攻撃するというのは、間違いなく「先制攻撃」だし、「戦争を始める」ということである。単に議論のための議論ではなく、言論機関として、その発言が政府も米国も動かす可能性があることを考えるべきだと思う。その視点に立つならば、北朝鮮を想定した「敵基地攻撃論」に対しては、米軍の動きを含めて、危険な芽を摘み取る言論を展開すべきだったのではないだろうか。
 私は直接見なかったが、いま人気のみのもんたは、「朝ズバッ!」で、額賀、安倍発言を「僕はこれは当然だと思いますけどね」と述べ、「日本の侵略主義的傾向の表明」と批判した韓国大統領府声明に、「ふざけんじゃねえ」と声を荒げていた、という。「みのもんた流」と言えばそれだけだが、危険である。テレビはすぐ消えてしまう。しかし、その印象は残る。そのフォローが難しいことも大切な問題である。

 読売新聞が1994年11月「読売改憲試案」を発表して以後、読売、産経が改憲を主張、朝日、毎日が改憲には慎重論を唱えている、という見方は一般的で、間違っているとはいえない。しかし、読売が2000年に「第二次試案」、2004年に「2004年試案」を発表し、その主張を確固としたものにしているのに対し、朝日、毎日の議論は「受け身」で、「護憲」を主張しているようではあるが、曖昧だ。
 これに対し、多くの地方紙は「改憲」に対して基本的な問題点を指摘し、慎重な態度を取っていることが目立つ。これまで、社説で改憲を主張したのは、北國、静岡の二紙で、「戦争放棄」の主張は、地域には根付いている。政府との距離が近い全国紙が改憲を煽っていることと、対照的だ。
全国紙の姿勢の曖昧さは、憲法にかかわる現状の諸問題への対応でも目立っている。
 例えば、2001年の「9・11」つまり、「米国同時多発テロ」の際、最初は「報復が報復を呼ぶ悪循環に陥りかねない」(9月13日)と、米国の武力行使に反対を表明していた朝日新聞は、10月9日には「限定ならやむを得ない」になってしまった。最近でも、共謀罪について、「乱用の余地を残すな」と述べ、民主党の修正案を支持した朝日は、自民党が民主党案を丸飲みする提案をすると、立場を失い、「妥協するなら正攻法で」というしかなかった。ここでも、愛媛新聞が「対象が必然的に拡大するのは目に見えている」「乱用の余地を一点たりとも残してはならない」と述べ、毎日が「あくまでも慎重な審議を」と書いたのと対照的だった。

 日本の新聞、放送は、かつての戦争で、最初こそ軍部の横暴に抵抗の意思を示したものの、次第に曖昧になり、やがて「統制」を受け入れ、戦争に積極的に協力し、それを煽る役割を演じた痛恨の歴史を持っている。
戦後の新聞の出発点は、その反省の上に立ち、日本国憲法の非戦の精神を貫き、基本的人権の尊重と、主権在民を実現する民主主義の確立を目指した。しかし、60年を過ぎてその精神が危うくなっているとすれば、もう一度その原点に立ち戻って、憲法とその精神、そして言論の自由のために闘うことを確認していかなければならないだろう。
 「賞」で知られる米国の新聞王ジョーゼフ・ピューリツァーは「ジャーナリストとは国という船のブリッジに立って、常に船の行く先を見つめ、危険を知らせる水先案内人でなければならない」と述べた。しかし、マスメディアの巨大化は、視聴率や部数競争にメディアを落ち込ませ、「ジャーナリズム」を失いかねない事態をももたらしている。
 つまり、いま憲法の問題は、平和の問題だけではなく、あらゆる分野に広がっている。不公平な税制、危うくなっている労働時間や賃金、「生存権」を奪いかねない社会保障制度の改悪、こころの中まで侵入し統制を強める教育から「街角の言論の自由」まで、あらゆる分野で、憲法の精神が蹂躙されている。しかし、こうした問題へのメディアの問題指摘は弱く、国民の期待に応えてジャーナリズムの責任を果たしているとは言い難い。
いまメディアに求められているのは、あらゆる問題について、改めて憲法という原点に立ち返って考えること、「憲法で考える」ことであり、その視点から権力や政治の動きを監視していくことである。
 私はこの夏、「新聞は憲法を捨てていいのか」(新日本出版社)と題した本を出版した。憲法とその精神と、「言論・表現の自由」の課題にきちんと向き合い、勇気を持って発言すること。それがいま、メディアに求められている。
         (日本ジャーナリスト会議、関東学院大学)

*初出:「憲法-歴史・未来館」ホームページ http://www.filmkenpo.net/mirai/index.html