インタビュー

直言45 報道写真家 福島菊次郎さん

福島菊次郎さん 国民投票後の日本を見すえよ

 今夏の参院選で歴史的な敗北を喫した自民党。だが、これで改憲の流れが失速したわけではない。広島の被爆者や公害問題など、戦後の日本を撮り続けてきた報道写真家、福島菊次郎さん(86)は、いまの日本を「戦争前夜」と位置づける。「戦争が始まる前、われわれの生活をすべて統括できる国家総動員法ができた。今度も、国民投票法が施行されるあと3年の間に、政府は憲法を変えるためのあらゆる術策を練ってくる」と話す。【明珍美紀】

●日本人は憲法を自分のものにしていない

 戦争体験者とその後の戦争のない時代に生まれた人とでは憲法の考え方はずいぶん違う。僕たちの時代は、戦争の悲惨さを知っているだけに、新しい憲法の誕生に期待し、「救われた」という実体験をみな持っていた。憲法は新しい未来の基点になった。
 せっかくいい憲法ができたにもかかわらず、僕たちは、戦後の荒廃や飢餓のなか、自分の生活で精いっぱいだった。新しい時代意識を持ったぐらいで、国民が憲法の重みや表現にあまり関心がなかったところに問題があった。僕なんかもきちんと読んだのは1960年代にプロの写真家になるために上京したときで、前文の冒頭に朕がいることはさらに何年も後になって分かった。
 憲法をきちんと読んでいない。自分のものにしていない。そういう状況で、どういうことが起きたかというと、政府が朝鮮戦争のとき、憲法を拡大解釈で実質的に改ざんしていった。憲法ができたとき、子どもたちに知らせるために当時の文部省が「あたらしい憲法のはなし」を出した。戦争をして何かいいことがあったでしょうかと説き、戦争放棄を掲げた憲法は世界で初めてと、ちらっと書いたのに、わずか3年でそれを無視した。
 朝鮮戦争が始まったときも目だった反対意見はなかった。それどころか朝鮮戦争の特需によって日本は奇跡の経済復興を成し遂げ、事実、それがなければ日本の戦後の復興はなかった。

●戦争責任を追及する能力に欠け

 広島でも戦後すぐ、砲弾がつくられていた。原爆が投下されたのは街の真ん中で、海岸地点にあった軍需工場はほとんど無傷だった。僕も広島の部隊に原爆が落ちる1週間前までいたけれど、警報は鳴っても爆弾は落ちなかった。憲法に違反して砲弾をつくり、それが即、経済復興につながった。だから国民もマスコミも黙ってしまった。
 みなそうなんです。一過性民族というか、広島のことだって1945年8月6日に原爆が投下された。なんとひどいではないか、というところから始まる。日本の侵略戦争と同時並行的に原爆の問題が語られたなら、そんなことにはならない。両方を語るのはとんでもなく難しい。最近感じるのは、政府は戦争責任の追及をやらなかったのではなく、やる能力がなかった。それがこの国の問題を考えるうえでの指標になる。

●マスコミはこの3年で目を覚ませ

 記者へのアドバイスをお求めになるが、これは人に助言を求めるようなことではない。つまり考えなかったから、こんな時代になった。考えない人が人の意見を聞いたって何になりますか。これが僕の正直な答えです。
 僕は戦後の一時期、敵国だったアメリカが、旧日本との対比において好きになった。戦後、アメリカの物が入ってきたが、思想も入ってきた。アメリカを知っていくなかで、日本は人権を与えられたけれど、国民がそれを身に着けなかったと思うに至った。それを借り物だとか、押し付けだとかということで逃げてきた。
 敗戦と言わずに終戦と言う。これでは負けたのか勝ったのか分からない。ということは、戦争責任なんか浮上しなかった。終戦という言葉をあてはめたやつは非常な知恵者。日本人はまやかし、ごまかしの能力は抜群なんですよ。
 いよいよ改憲のための国民投票が、早ければあと3年で実施される。いままでは改ざんしておったが、いろいろ問題がありますから憲法を変えてしまえば面倒はなくなるというわけですね。ただし、3年後に国民投票があって、改憲が否定されてもいまの状況は変わらない。自衛隊がなくなるわけでもないし、日米安保条約が撤廃されるわけでもない。憲法の条文にだけ人権とか主権者とかという言葉が残っているだけで、解釈改憲で自衛隊が海外で武器を使うかもしれない。そのとき「私たちはどうしますか」ということを誰も答えない。
 もし僕が望むことがあるとするなら、その先を考え始めてください。この3年間でマスコミは目を覚まさなきゃ。目を覚ましたら必死になって、60年以上やってこなかったことを、みんなの目を覚ますためのキャンペーンをやらなければならない。その意味でも、この3年は最後の切迫した3年なんです。


福島菊次郎(ふくしま・きくじろう)さん
 1921年山口県下松市生まれ。戦後、民生委員をしながら被爆の実相を伝える写真を発表。42歳で上京後、プロの写真家となり、公害問題や学生運動、三里塚闘争などの写真を撮り続け、89年から各地で「戦争責任展」を開催。著書に「ヒロシマの嘘」など。