インタビュー

直言49 APF通信社社長、山路徹さん

山路徹さん 戦場取材は平和の重みを図る指標

 ミャンマー(ビルマ)の首都ヤンゴンで昨秋、反政府デモを取材中、銃弾を受けたジャーナリスト、長井健司さん(当時50歳)の殺害に抗議する署名が約3万9000人に達し、2月中に4万人を突破する見通しとなった。「残虐な取材妨害行為だ」と批判を受けるミャンマー政府はいまだにビデオカメラや遺品の返却に応じていない。長井さんの死は戦場ジャーナリストの過酷さを改めて浮き彫りにしたが、APF通信社社長の山路徹さんは「1メートルでも1歩でも近づきたい。徹底した現場主義だった」と故人を語る。【明珍美紀】

●記者の考え方や判断を尊重し

 戦場や紛争地の取材で言えば、例えばソマリアでロイターの記者が3人、APが2人殺され、われわれAPFでもカメラマンが血だらけになった。私自身、ボスニアで、まさに「一巻の終わり」という経験してきている。それでも今回、長井さんが凶弾に倒れた現実は、それらを吹き飛ばす衝撃があった。
 記者の人たちから「これからどうするのか」と問われたとき、「これからも長井さんの遺志を継いで続けていく」と言ったのもこれまた事実で、長井さんが死んだ後、APFの記者がビルマに入ろうとした。彼はバンコクから「長井さんの死を知りました」と社に電話をかけてきた。われわれとしては「行け」とも「行くな」とも言わない。記者が判断するしかない。私の頭のなかも混乱していたが、「行くのであれば支援をするし、行かないというのであれば帰ってくればいい」という話をした。
 APFの判断はどこで働いているかというと、記者の気持ち、考え方。それが尊重されなければ大メディアと変わらない。僕らは鵜飼の鵜ではない。自分たちが取材をするべき場所だと思えば取材をして、伝えていく。それが長井さんの遺志だったと思うし、この会社をつくった理由でもあった。

●「伝える意義」を熱く語った長井さん

 私はもともとテレビ朝日系の制作会社に中途採用で入り、配属が「ニュースステーション」になったとき、当時、「オフィス・トゥー・ワン」に所属していた長井さんもそこにいた。100人からのスタッフがひしめき、最初は右も左も分からない。そこで声をかけてくれたのが長井さん。「大変でしょ」「分からないでしょ」って。彼がニュース原稿の書き方や放送の段取り、そういうスタッフとしてのイロハを教えてくれた。
 優しい人なんですよね。すごく。新人が入ってくるとフォローしてあげてたりしてね。長井さん自身は物静かな人なんだけれど、自由人だったり頑固だったりするところがあって、時間があると「きょうのニュース。あれは違うよね、こう伝えるべきじゃないか」と意見を言い、でも「現場に行かないわれわれが何も言えないよね」というところもあって。視聴者に向けて伝えるとはどういうことなのかを常に熱く語っていた。
 ニュースステーション4年目の92年にボスニアの内戦が始まった。近場の支局の記者が動いたが、危ないからと記事は周辺国から送ることになる。「隣人が敵になって何が起きているか。その現状をニュースステーションとしてもきちんと伝えるべきだ」と現地取材の企画を出したが、「民族問題や宗教戦争は日本人には理解できない」と言われてだめ。そうしたやり取りが何回かあって、結局、私は辞めてしまった。
 それでAPFを設立して独自のスタンスで取材を始めることになるわけですが、そのころには長井さんもすでに辞めて1年近くになっていた。その間、長井さんは別の民放の報道番組などで仕事をして96年にAPFに合流する。「契約記者」とはなっていたけれど、実態はそうではなく、長井さんはステーション時代からの私の先輩であり、実はAPFの柱の1人だった。

●ジャーナリズムと市民の乖離

 長井さんの郷里の愛媛県今治市をはじめ、多くの人々が殺害に抗議する署名活動に協力してくれる一方で、一部の週刊誌などからは批判も受けた。
 バッシングのもとは日本人的な発想で、国民とジャーナリズムがきちんと結びついていない。国民はジャーナリズムを自分たちの「知る権利」を確保するための大事なものだと思っていない。ジャーナリズムは自分たちが「知る権利」のために命を賭けるという覚悟もない。そうすると「なんであんな危ないところに行かせたのか」というレベルの低い議論になる。しかも、報道被害ややらせ事件などで両者は不信関係にある。
 冒険家の植村直己や報道写真家のロバート・キャパ、沢田教一。彼らにどんな準備があればよかったのか。何を用意していたら死なずに帰って来られたのか。長井さんの死についていろいろなことを言う人たちがいるけれど、誰もそれについては答えてくれない。
 私はこの世界で22~23年選手。長井さんはもっとですよ。経験を積めば積むほど現場に行かなくとも原稿だけであれば書けるようになる。自分の経験と実績でつくってきた引き出しを開けるといろいろな言葉があり、似たような事例があって、過去はこうだったと書く。それはそれで否定するつもりもないし、ある意味では経験に裏打ちされた言葉の重みというものもある。
 長井さんは、いい意味で不器用だった。繕うことができない。現場に立たなきゃだめだった。それはジャーナリズムの基本なんですよ。50歳になった昨年、長井さんは恐らくそういう気持ちでビルマの地に立った。

●現場に行くことで世界観が変わる

 若い記者に言いたいことは「現場に行け」ということですよ。それしかない。記者一人ひとりは、行きたい、取材をしなければいけないと思っていても、業務命令で「帰って来い」といわれれば、帰って来ないわけにはいかない。それでも現場に行く努力をし続けることが大事だと思う。私自身、さまざまな戦地を取材して、それまで自分がイメージしていた地球のかたちなんか崩壊してしまった。
 新聞もテレビも「メディア」といわれて読者や視聴者に対して世界観を提示していく仕事ですよね。でもその世界観が、自分たちの都合の悪いところをえぐり取った穴だらけのチーズみたいになっていたとしたら、大変な責任放棄になる。
 パレスチナや中東、ボスニアでもそうだが、その日1日を過ごせたことをものすごく幸せに感じる人たちがいる。そういう人たちの姿を伝える。よその国や地域の戦争を伝えることで、自分たちが享受している平和はどれぐらいの価値があるのかを考える。その意味では戦場取材は非常に意味があるし、自分たちの平和を図るうえでも、世界のかたちを知らなければいけない。


山路徹(やまじ・とおる)さん
 1961年東京生まれ。TBS系、テレビ朝日系プロダクションを経て92年、国内初の紛争地専門ニュースプロダクション「APF通信社」を設立。スタッフは現在約10人。自身もボスニアやソマリア、カンボジアやアフガニスタンなど世界の紛争地を取材。現在は報道番組のプロデュースにも力を注ぐ。