インタビュー

直言54 劇作家 ふじたあさやさん

ふじたあさやさん 横浜事件から私たちが学ぶもの

 戦時下最大の言論弾圧といわれる「横浜事件」の第4次再審請求の判決が3月30日に言い渡される。名誉回復と無罪を求め86年に開始された再審請求は、第3次請求で認められたものの、最高裁は08年3月、有罪か無罪かの判断をせずに「免訴」が確定。裁判は4次に引き継がれ、遺族らの闘いはなお続く。この事件で逮捕された元中央公論編集長の故藤田親昌さんを父に持つ劇作家のふじたあさやさん(74)は「投獄された人々は単に言論の自由を奪われただけでなく、人間不信という重い荷を背負うことになった。実はそこに権力側の思惑と狙いがあった」と語る。【明珍美紀】

 横浜事件は、まさにうちの家族の原点にある。父が逮捕されたのは1944年の春、僕が小学4年の3学期のときだった。友人とスキーに行ったはずの父が帰らず、朝、特高刑事が土足のまま家に上がり込み、2階の廊下に並べてあった本棚から本を全部たたき落としていった。後から思えば共産主義文献があるかどうかを確かめていたのでしょう。
 その日から母は毎日、ふろしきに何かを包んでは持って出て、空襲警報の日も出かけていく。そのころ家は上野にあり、母はどうも銀座を越えた向こうの方に行っているらしい。「今日は空襲がひどかった」と銀座の焼け跡を踏んで帰ってきたことがあった。
 とはいえ母は初め、「お父さんは満州(中国東北部)に行っている」と僕や妹たちに説明していた。編集長になる前、満州の開拓団の取材に数カ月かけて行ったことがあるので「今度もそんなものか」と思っていた。だが、そのうちに普段あまり訪ねて来ない母の伯父が、軍服に襟章を付ける内職を母に持ってきた。「ついでに朝也君も働くかい」と言われ、学校帰りに町工場に通って飛行機の部品をつくる仕事をしていた。空襲がひどくなったのでそれは数カ月でしたけれど。
 年が明けて45年、僕が5年生の1月に父があざだらけで帰ってきた。顔はむくみ、歯もぼろぼろ。そこで何があったのか、直感的に分かった。
 実刑にはならなかったが、父も猛烈な拷問に遭った。逮捕されたほとんどの人は拷問の苦しさから「やりました」と言ってしまった。なかには拷問そのもので死んでしまう人もいた。体力に自信があった父親は、とりあえずは耐えた。そんなことが有罪か無罪かの分かれ目になる。
 とにかく横浜事件そのものは架空の事件で、あったのは横浜の特高刑事たちが、でっちあげをしたという事件ですね。

●人間関係が壊れ、孤立する怖さ

 中央公論時代の友人が訪ねてきて父が話をしているときに、それとなくそばにいて、時折、質問もした。後から聞いた話だが、父が逮捕された当日、母が中央公論の社長に報告しに行った。すると「昨日(逮捕前日)の日付で辞表を書いてくれ」と言われ、母が警察に面会に行って告げると、父は悔しかったのでしょうねえ、「それなら、そう書いて退職金だけもらっておけ」と答えた。その退職金をもとに戦後、父は出版社をつくることになるが、父は社長の一言を決して許していなかったと思う。
 父は96年11月に92歳で他界したが、その直前に辞めてから初めて昔の中央公論に行った。旧丸ビルがなくなると聞いて、「行ってみたいなあ」と言うものだから、車に乗せて連れて行った。
 戦前からのエレベーターに乗って5階。東京駅寄りのフロアに中央公論があり、「この通路をしょっちゅう歩いていた」と懐かしそうに話す。中央公論の美術関連の部署がまだ残っていて、中にいた方が応対してくれましてね。父は中央公論時代の人たちとは何遍も会って酒も飲んでいるのに、中央公論社自体には足を踏み入れなかった。そのことを僕もその場で初めて知った。
 いまの時代であれば何の意味もないことが逮捕の理由になる。信頼関係で結ばれていた人たちが、拷問でずたずたにされ、「あいつのせいで俺は捕まったのだ」と疑心暗鬼の気持ちを戦後も引きずっていた。戦時下最大の言論弾圧事件といわれるが、裏側から見ると単なる言論弾圧ではなく、人間関係を壊し、人間不信に陥らせた。
 実は僕は52年5月の血のメーデー事件のとき、皇居前広場に集まった学生の一人。留置所に入れられて面会に来た父が途端に言った言葉が、「誰の名前も出すなよ」。これは重かった。
 結果的に僕は大学時代の「ニコライ堂裏」から「村井家の人々」まで、横浜事件を素材に芝居を4本書いている。人間不信に陥ったためにそれぞれが孤立し、なかったことがあったことになってしまう。その怖さを、声を大にして言うべきだと思いますね。

●かたちを変えた自由への侵害を危惧

 劇作家の道に入ったのは、父の影響や、麻布中学時代の先輩にフランキー堺さんや小沢昭一さんがいたことが大きいが、中学2年のとき、初めて新劇というものを観て心をときめかした。その芝居が、文学座の戌井市郎さん演出の「女の一生」(45年4月初演、敗戦後の46年11月末復活)だった。三越劇場で、杉村春子さん主演でね。
 まさに時代そのものが舞台に乗る。その感動ですね。絵空事ではなく、自分たちが経験している時代そのものが舞台の上にある。そこを鏡にしながら自分に対する問答が始まる。
 その戌井さんと今年は同じ舞台に上がった。92歳の戌井さんをはじめ、劇作家の瓜生正美さん(84)や本多劇場の本多一夫さん(74)らでつくる「パラダイス一座」の最終公演(09年2月、東京・下北沢)に僕も役者として参加。ふらついた戌井さんの手を僕が取る場面もあって、まさかこんな日が来るとは思わなかった。
 第二、第三の横浜事件はいつでも起こりうる。こんな露骨なかたちではなく、じわりじわりと首の根っこをしめられるようなかたちで。いまの「派遣切り」にしても、いつ自分が首を切られるかとびくびくし、次第に上司の顔色をうかがい、それぞれが疑いのまなざしで同僚を見るようになる。

●取り替え不可能な、その記者独自の記事を

 記者は無名性である必要はない。情報源を守るために署名記事にしないことはあるだろうが、一人ひとりが責任を持ってお書きになればいい。芝居だけで食べられるようになる前、かなり長いこと放送作家をしていたから、放送局の内側も見てきた。シナリオも、例えば日韓関係が微妙なときは「その問題にはあまり触れないでくれ」など、手直しを求められ、場合によっては放送されないこともある。自主規制ですね。見えないものにおびえて自主規制する。新聞の現場にもおありではないですか。
 演劇も同じで、取り替え可能な演出家、俳優で成立する演劇の時代はもう過ぎたと思っている。取り替え不可能な、その人でなければできない表現、例えば「戌井市郎がこの芝居を演出するから意義がある」というように。それはあらゆる分野に言える。だから記者も、取り替え可能な記者に甘んじてほしくない。
 僕は横浜事件や父を通して戦争の実態というものを知った。平和憲法を持つ日本が、「憲法9条があるので仕方がない」と軍隊を送るのを拒む姿は、少なくとも平和の役に立つ。仕方なくても何でもいい。「これは置いておこう」とみんなが思うことを心から願う。(09年2月インタビュー)


ふじたあさや(藤田朝也)さん
 劇作家。1934年東京生まれ。早稲田大演劇科在学中に「富士山麓」(福田善之氏と共作)を発表。劇団三十人会を経て73年フリー。92年「しのだづま考」で芸術祭賞。児童劇団への作品提供、演出指導や若い演劇人らの育成にも力を入れる。横浜事件を素材にワイドショーのスタッフが事件を追うかたちで舞台が進行する「村井家の人々」は94年に千田是也氏演出で青年劇場が上演。

◇横浜事件◇ 1942年、雑誌「改造」に掲載された論文が共産主義の宣伝だと、警視庁が執筆者の細川嘉六さんを治安維持法違反容疑で逮捕。さらに神奈川県警特高課が中央公論社や改造社などの編集者ら約60人を逮捕した。過酷な拷問で4人が獄死。約30人が有罪判決を受けた。遺族は86年に再審請求。第3次で弁護団は敗戦で消失した判決文の復元に取り組み、東京高裁は05年3月、「拷問を受けて虚偽の疑いのある自白をした」と判断し、再審が開始された。