インタビュー

直言56 映画監督 羽田澄子さん

羽田澄子さん 戦争は止めることができる

 記録映画作家の羽田澄子さんが監督した最新作「嗚呼 満蒙開拓団」の自主上映が各地で広がっている。「痴呆性老人の世界」をはじめ福祉や労働問題など数多くの作品を手がけてきた羽田さんが初めて戦争問題に真正面から取り組んだ作品だ。「私自身、満州(現中国東北部)の出身ということもあり、実際に何があったのか、戦争になるとどういうことが起きるのか、当事者の声を記録しておきたかった」と言い、「この問題のドキュメンタリーをつくる最後のチャンスだと思った」と語る。【明珍美紀】

●当事者の生の声を伝え

 中国残留孤児の問題に改めて関心を持つようになったのは2002年、残留孤児の人々が国家賠償訴訟を起こしてからですね。私も満州で育ったとはいえ、大連といういわば都会にいたので、奥地で実際に何が起きていたかは知らなかった。可能な限り裁判にも傍聴に行った。そのころ、「星火方正」(せいかほうまさ)という冊子が送られてきて、ハルビンに近い方正県に、亡くなった開拓団の人々のために中国の方正政府が建立した墓があることを知った。方正地区には敗戦後、奥地の開拓村から多くの人々が避難してきたが、零下30度を越す極寒の地で数千人の人が亡くなったといわれる。
 日本人に恨みを持って当然の中国の人が「なぜ日本人の墓を」。その驚きが映画をつくるきっかけとなった。
 映画は私が方正の日本人公墓へのツアーに同行し、そこで残留婦人や孤児を育てた養父らと会い、日本に帰国した元孤児の話も聞いて1年2カ月をかけて製作した。とはいえ、当時、苦労した方々はほとんど亡くなっていた。山間に散らばっている遺骨を見て「日本人のお墓をつくってください」と方正県に要望した松田ちゑさんという残留婦人が最年長。その松田さんも、会いに行くと「もう忘れました」とおっしゃって、何かの拍子にふっと思い出すと、ぱっと話される。そんな状態だった。
 言われてみれば、戦争問題を真正面から取り上げたのは、この作品が初めて。戦後、私は母校・自由学園の羽仁説子先生から声がかかって岩波映画で仕事をすることになったが、過去に目を向けるよりは、いまの日本の社会をどうすればいいかということの方に関心があった。岩波映画にいたときは、労働組合の活動もしていて、何度も委員をやっていたので、ベトナム戦争、安保闘争など戦争や平和の問題を、映画を通して訴えるという発想はなく、むしろ自分の運動としてとらえていた。
 今回、この映画をつくるに当たり、満蒙開拓団のことについての書物が実にたくさんあることを知った。けれどもその多くは当事者の回想録や自分史で、限られた範囲の人しか読んでいない。マスメディアでも、残留孤児を主人公にしたドラマや、「養母を訪ねて行きました」といった内容のドキュメンタリー番組はあった。ドラマティックではあるけれど、つくる側の主張がはっきりしていないと感じていた。
 私は当事者の生の声を伝えたかった。この映画を関心を持って観てくれている人の多くは高齢者だが、次の世代に引き継いでおかないと、同じ過ちを繰り返す。映画は不特定多数の人が観ることができ、しかもわずか2時間で問題の焦点を訴えることができる。その意味では非常に有効な媒体です。

●非核三原則の堅持を

 不思議なもので「憲法を守ろう」という声は随分あちこちで聞こえるけれど、「憲法を変えよう」と主張する人たちの声はそれほど耳に届いてこない。それなのに、イラクに自衛隊が派遣され、国民投票法が成立し、実に巧妙に流れを変えてきている。
 「あの憲法はアメリカの押し付けだから変えよう」という人がいるけれど、なぜ憲法だけ「押し付け」といって抵抗するのか。もっとほかのもの、例えば沖縄の米軍基地や原子力船の寄航など、押し付けられているものはほかにもたくさんあるのに、それについては文句を言わない。
 国というものは軍隊を持って国民を守るものだ。権力志向の人間は恐らくそういう力を持っていなければ権力が行使できないと理屈抜きに思っている。改憲派の人は当然のこととして軍隊が必要だと思っているのではないか。
 「北朝鮮が攻めてきたらどうするのか」と言う人もいるが、日本には憲法9条があり、日本から攻めることはないから、北朝鮮が攻めてくる理由はない。
 日本は絶対に戦争を仕掛けないということが、国のあり方として基本にある。
 だから新政権には、憲法9条と非核三原則を大切にしてもらいたい。無駄遣いをやめて財源をつくり、人々が本当に必要なところに振り向ける。「脱官僚」と言っているけれど、どれだけ民主党に力量があるか。状況に応じて、官僚と協力してそういう方向を打ち出さなければいけない。
 米国のオバマ大統領のプラハの演説は画期的だった。米国の政治家の口からああいう言葉が出たのは初めてではないか。実際には難しいことだろうが、非核三原則を守って9条を守って、方向としてはオバマ大統領もそちらを向いている。その意味では心強い発言ですね。

●同じ轍を踏まないで

 私が満州にいたときのことを話すと、当時、大連には日本人が20万人以上いて、日本人が中国人の上に立つ社会ができていた。日本人はいわゆる労働はしない。労働は中国人がする社会だった。
 しかし、敗戦になってソ連軍が進駐。日本人の支配構造は崩壊し、ソ連軍司令部が支配することになった。無組織になった日本人社会に奥地からの難民が入ってくる、失業者が増えるといった状態に対応する組織として、ソ連軍司令部が許可したのが「大連日本人労働組合」で、日本人の救済活動を行っていた。私も開拓難民の子どもたちに紙芝居をつくったり、古い布を拾い集めて下着を縫い、それを持って行ったりしていた。
 大連からの引き揚げは1946年12月から始まり、私は48年7月の第二次で引き揚げるわけですが、その間、労働組合の婦人部で働いていた。
 私はまさに昭和時代に成人した人間ですから、日本の戦争の時代をみっちり体験している。当時、私は長生きできるとは思っていなかった。日々戦況が悪化して30歳まで生きられるとは思わなかった。だから戦争が終わったときは心底、ほっとした。これで長生きできると思った。
 そのときすごく思ったのは、「戦争は止めることができる」ということですね。つまり日本人はその時代、戦争を止めることができるとはイメージしていなかった。本土決戦で死ぬまで戦うと誰もが思っていた。止めることができるなら、なぜもっと早く止めなかったのか。それまでどれほどの人が犠牲になったのか。
 若い人たちは、日本の侵略のことにしろ、満蒙開拓団のことにしろ、近現代史を知らない。それを教えないできたのは政府の責任。いままでは、戦争を体験してきた人々の「戦争はもう嫌だ」という強い思いで、平和がある程度保たれてきた。これからのことを思うと、戦争のことを何も知らない世代に、悲惨な歴史の事実を知ってもらい、同じ轍(わだち)を踏まないようにしてもらいたい。
 私は軍隊を持つことに対して非常に批判的な人間の一人ですが、なかには軍隊が大好きだという人もいるわけですね。誰でもつい、ドラマやアニメーションで、武器を持って敵をやっつけるものを、喜んで観てしまいます。人間の本質のなかにそういうものを受け入れて喜び、興奮するものがある。
 戦時中の新聞を読むと「いったい新聞記者は何を考えていたのだろう」と思う。軍の旗振り役をしていただけではないか。
 いまの新聞記者がどれぐらい自分の主張を書けるのかは分からないけれど、もっとはっきりしたものの言い方をした方がいい。いろいろなニュースを一番早く、一番たくさん知ることができる環境にいるわけですから。日本が大失敗をした歴史、明治時代以降、敗戦までの道のりをその時々に応じてきちんと知らせてほしい。


羽田澄子(はねだ・すみこ)さん
 1926年、旧満州大連市生まれ。自由学園女子部高等科卒。50年岩波映画製作所入社。57年の「村の婦人学級」で初演出。81年に退職するまで約80本の映画を手がけ、以後も、フリーの記録映画作家として活動。82年「早地峰の賦」で芸術選奨文部大臣賞。86年の「痴呆性老人の世界」で毎日映画コンクール教育文化映画賞。90年の「安心して老いるために」で山路ふみ子賞。「嗚呼 満蒙開拓団」は文化庁映画賞の大賞を受賞した。同作品の自主上映の日程は自由工房のホームページに掲載。