ご意見紹介

田畑忍元同志社大学学長一家の戸籍抹消事件

5月29日の共同通信は「「共産と同一行動は問題」 3人出産発言を巡り 自民、女性県議を注意」を報道した。私は、これは重大な問題だと思っている。石破幹事長(当時)が沖縄県選出国会議員に「米軍基地問題」へ転向を求めたことと同じだと思っている。
以下、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟鹿児島県本部作成資料(2000年10月10日)から引用する。

田畑忍元同志社大学学長一家の戸籍抹消事件

奄美大島は国防上の重要な拠点として古仁屋要塞の構築が始まり、これに反対したアナーキストを弾圧し、カトリック排撃運動が名瀬で起こり1934年暮れにはすべての宣教師が奄美大島から引き揚げざるを得ない状態にエスカレート、1935年には古仁屋要塞司令官であった笠(りゅう)蔵次陸軍大臣が名瀬町長にまつりあげられ5年間勤めましたが宣教師が居なくなった教会の跡に町役場を移し、信者を集め信仰を捨てなさいと話し「もし、余が言うことが間違っておればこれをもって余を刺せ」と、自分の軍刀を投げ出した話は有名です。また、宗教転向書をたくさん印刷して署名捺印を強制したり、防空演習にかこつけて、信者の家を焼夷弾の投下の的にして、家財道具から店の商品も台無しになるほど水をぶっかける、こういう蛮行が展開された。
こういうなかで名瀬ゆかりの憲法学者、田畑忍さん一家の戸籍抹消事件が起こりました。8歳下の弟・田畑しげしさんが全協食品部支部責任者、全協京都支部協常任として活動中、1932年5月に共産党に入党、9月検挙、11月起訴されました。当時は、本籍地の役場に通知が来るしくみでしたが、名瀬の町会では、急遽招集が行われ、「非国民一族の本籍が名瀬においていくわけにはいかない」という決議がされ、それを田畑家につきつけられ、お父さんは、泣く泣く本籍を名瀬町金久村から京都府東山区に移さざるを得なかったのです。「昭和10年3月22日全戸除籍」となっています。共産党員、アカ、非国民と言われれば、戸籍まで抹消される、人権もない暗黒の時代でした。
名瀬市議会では治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟鹿児島支部(当時)の陳情にもとづき審議、こうした戦前の痛恨の反省にたち1994年10月5日「治安維持法犠牲者への国家賠償を求める意見書」が全会一致で採択されました。