今週のひと言

「老後2000万円不足」報道の落し穴

 政府の施策をいかにも、広く意見を聞いたように見せかけるために組織するのが「審議会」だと思われてきた。だから、設置する側は必ず、メディアから人を入れ、風当たりを弱くする。政府が管轄した「審議会等」は、昨年9月1日現在で129。金融審議会もそのうちの一つだった。
 「退職した65歳の夫と専業主婦の60歳の妻という老人世帯で、30年生きるとすると、必要なのはあと2000万円」という「市場ワーキング・グループ」の「高齢社会における資産形成・管理」報告書は、麻生太郎財務相が受け取りを拒否、それが官邸の指示だったこともわかって大問題になったが、現実は報告書が言うとおりで何の間違いもないし、問題はそれだけではないことが問題だ。
 つまり、この統計は、学業を終えて企業に就職し、サラリーマンとして、専業主婦の妻に支えられて老年を迎えた夫と妻を想定している。しかしいま、さらに、これから例えば10年後、そういうモデル夫婦がどのくらいいるのだろうか、ということだ。いま、非正規の労働者は全労働者の3分の1を超えてしまい、年金に対する若者の信頼は著しく低下しており、国民年金の納付率は実質40%といわれている。
 長年企業で働いてきた人が2000万円必要なら、国民年金だけの高齢者はどうなっているのか、例えばこれから老年を迎える団塊世代以後の人たちの年金はどうなるのか。
いまの年金制度が破綻してきているのは、もう、言うまでもないことだ。メディアはこの報告に、そこを突いて、政府の無策を糺すべきだ。「財源がない」と言うだろう。そんなことはない。いらない、無駄な兵器の爆買いをやめて、本当に困っている人たちから、改善策に手をつけるべきではないのか。
 改めて、自分の老後の家計を計算し、年金を考えよう。そう呼びかけ、政府の施策の間違いを糺すのがメディアの仕事だ。


NHK「ネット進出」に注文

 NHKがインターネットに24時間放送と同時に配信できるようにする放送法改正が成立した。ネットも含めた「公共メディア」を標榜するNHKの役割について、あえて問題提起してみたい。
 放送法15条によってNHKは「あまねく放送」の義務を負っている。これは、日本全国どこでもNHKの放送がちゃんと受信できるようにすることを法律で義務付けたものだ。「公共放送」であるNHKは、受信できない地域が残されていることは法的に認められていない、ということで、NHKの各放送局には、民放にはない「受信技術」というセクションがあり、この担当者は放送エリア内の地域を回って、視聴者がNHKの放送波をちゃんと受信できているか確認し、受信状態がよくない場合にはアンテナを増やすなどの対策を講じなければならないことになっている。
 では、インターネットの世界ではどうなのか。インターネットのインフラは民間の通信事業者などによるもので、NHKの受信技術はそこまで関わることはない。通信網の整備にNHKの予算を使うことは、放送法に定められた業務範囲からは想定されていない。
 しかし、ネット上にNHKの番組を提供するだけで「公共メディア」の役割を果たしている、というのは、ずいぶんおめでたい話ではないのか。コンテンツをネット上にアップするだけなら、やっていることは一般のネットユーザーとあまり変わらないのではないか。NHKが「公共メディア」の使命として、たとえば通信インフラ整備にも積極的にかかわって、投資して、災害時にもちゃんとNHKの情報があらゆる回路を通じて届けられる、というような、新しい「あまねく」概念を打ち出してこそ「公共メディア」の名にふさわしい存在になれるのではないか。
 もっとも、政府の言う通りの「忖度」メディアが巨大化するだけなら、そのほうが弊害が大きいかもしれないが。いずれにしても、「公共メディア」概念について、NHKは視聴者に対する説明が足りない。


憲法の意味する平等社会

 台湾で24日、アジア初の同姓婚を認める特別法が施行された。この日、早朝から全土で受け付けが始まり、カップルが続々と婚姻の届け出をした。
 性的マイノリティーと呼ばれる「LGBT」は、レズビアン(女性同性愛者)
▽ゲイ(男性同性愛者)▽バイセクシュアル(両性愛者)▽トランスジェンダー
(生まれ持った性にとらわれない人)のことだ。最近では、女性でも男性でもなく生きるジェンダークィアが加わり、「JGBTQ」という新たな呼び方が使われるようになった。
 日本で2016年に公開された米映画「ジェンダー・マリアージュ」は、同性婚をめぐる裁判で勝利したカリフォルニア州の2組のカップルを追ったドキュメンタリー。同州は08年5月、マサチューセッツ州に次ぎ同国で2番目の同性婚合法州となったが、半年後には結婚を男女に限定する州憲法修正案「提案8号」が議会を通過。訴訟はこれを「人権侵害」と訴え、米最高裁で婚姻の平等が初めて争われたケースとして注目を浴びた。
 日本でも、同性同士の婚姻を認めない現行法が憲法の「婚姻の自由」(24条)などに違反すると主張して13組の同性カップルが今年2月、国を訴えた。
 だが、教育現場では、トランスジェンダーを自覚する子どもたちが、教師らの無理解により不登校になる場合がある。トランスジェンダーに関するアーカイブ(資料や記録の保存)の整備に力を入れるカナダ・ビクトリア大学のアーロン・
H・デボー教授は昨春の来日時の講演で、「世の中には多様な性がある。子どもたちには自己を探求する自由や環境が保障されなければならない」と強調した。
 日本国憲法は、すべての子どもに等しく教育を受ける権利を保障(3条)している。婚姻の問題も24条の「両性の合意のみに基づいて成立」についての解釈の問題はあるが、その本質は個人の尊厳と平等を保障することだ。異性、同性にかかわらずカップルが自由に婚姻を選択できる社会になることが、憲法の理念に沿う姿ではないだろうか。
 台湾でも、法制化までには当事者らの長い闘いがあったはずだ。社会にはさまざまな人がいて多様な考え方がある。それぞれを認め合い、対話することから、この社会を変えていこう。


「戦争しなければ…」ということ

 日本維新の会の丸山穂高議員の「戦争しなければ、領土は返らない」発言は、大問題だ。さすがに維新は除名処分にしたが本人は、「言論の自由だ」と開き直っている。国会で辞職勧告決議案をという提案にも、何と「先例になるのは困る」とまとまらないらしい。要するに、同じような感じを持っている人たちが多い、ということなのか? 変な議員がいるのは、それを支持する人が少なからずいるということだ。この際、この問題をじっくり考えてみなければならない。 
 日本国憲法は「再び政府の行為によって戦争の惨禍が起こることがないように」と、「主権在民」や「戦争の放棄」を決め、天皇以下大臣や議員、公務員に「憲法擁護義務」を課した。戦争好き、戦争は必要だと思っている人は、議員や公務員にはなれない。それは「言論の自由」「思想の自由」に抵触する話ではない。
 国際的には、1928年の不戦条約があり、いまそれで世界が動いている国連憲章がある。そんなものはそっちのけ、の戦争があることも事実だが、日本は「戦争をしないと決めた国」なのだ。
 日本には、まだ「丸山議員的感覚」が残っている。いま、外国の戦争が報道される。その中で、「日本は戦争しないのだ」という考え方を改めて培っていくことが大切だ。
 領土問題だとやたらに強硬論が出る傾向がある。しかし、どの問題でも、まず大事なのは、実効支配。北方領土はロシア、竹島は韓国、尖閣諸島は日本が実効支配している。それが原則だ。意見の違いを認めた上で、どう現実的に解決するのか。方法は話し合いしかない。そのためには、国際司法裁判所での解決も一つの方法だが、基本は話し合い。戦争、つまり武力行使は論外なのだ。


天皇制論議をタブーにするな

 4月から5月にかけて「改元・天皇代替わり」の一連のイベントが行われました。この間のマスメディア、とくにテレビはまるでお祭り騒ぎのようだった。NHKは『平成紅白歌合戦』や『ゆく時代くる時代』などと、年末年始を思わせる長時間の特番をはじめ、特別編成で二日間を放送した。
 天皇の交代によって年号を変えるという習慣を残しているのは世界でも日本だけということで、近代国家と天皇制はどのように相容れるのか、また国民主権を掲げる日本国憲法と天皇制はどのような関係にあるのか、国民的な議論を起こす絶好の機会だったが、テレビはただ大騒ぎをするばかりで、せっかくのチャンスをふいにしてしまった。
 まったくメディアに登場しなかったのは、天皇制そのものの是非に関する議論だ。
 戦時中の「慰安婦」問題を追及し、資料収集・展示などをしているアクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」は、退位の日の4月30日に「天皇制は、自由と平和、平等と民主主義に反する制度です。日本の戦争責任、植民地支配責任を果たすためにも、日本人が自らの手で天皇制に終止符を打つ、その歩みをみなさんとともにこれからも進めていきます」とするアピールを発表した。また即位の日の5月1日にも、天皇制を批判する講演会やデモが都内など各地で行われたが、テレビ各局のニュースなどでは触れられなかった。
 天皇制に対する批判があるという事実すら報道されない状態では、天皇制の今後を考えるための冷静な議論は期待できない。実際、天皇制に関する問題はマスメディアではタブーのようになっている。こうした現実が、日本における表現の自由を息苦しいものにしている側面もあるのではないか。天皇制論議をタブーにしてはならない。


ドロボウネコ

 新元号の決定、平成最後の行幸啓…などと騒いでいる間に、改憲策動が前に大きく進んでいる。この後、天皇退位、新天皇即位で10連休、などと浮かれているうちに、まるで、どさくさのスキを狙った「ドロボウネコ」。改憲をテーマにして衆参同日選が仕掛けられているのかもしれない。
 萩生田光一自民党幹事長代行は、18日、インターネットの右翼テレビ「虎ノ門ニュース」(DHCテレビ)で、景気の指標になる日銀短観を念頭に、消費税増税先送りの可能性を示唆、「(増税を)やめるとなれば、国民の皆さんの了解を得なければならないから、信を問うということになる」と発言、さらに進んで、憲法審査会について、「野党と合意しようと現場は頑張っているが、そろそろしびれちゃってる」と発言。「ここまで丁寧にやってきても(野党は)聞かない。総理がたびたびスケジュール感の発信をすると責められる。発信してもだめ、静かにしてもだめだったら、もうやるしかない」「(天皇の)譲位が終わって新しい時代になったら、ワイルドな憲法審査を自民党は進めていかないといけない」と述べた。
 萩生田氏は消費税先送り発言について追及され、、「撤回」したが、同じことをまた言っており、意見は変わらず。改憲については、24日の憲法審査会の懇談会で、自民党が謝罪して、憲法審査会開会に反対していた野党も腰砕け。25日の審査会開会に合意した。
 一方で安倍首相は、23日、新憲法制定議員同盟(会長・中曽根康弘元首相)の「新しい憲法を制定する推進大会」へのメッセージで、「令和元年という新しい時代のスタートラインに立って国の未来像について真正面から議論を行うべきときにきている」と表明。「憲法に自衛隊と明記し、違憲論争に終止符を打つことは政治家の責任ではないか」などと国会議員に号令をかけた。
 「改元、代替わりキャンペーン」で、なぜか内閣支持率が10ポイント近くアップ、統一地方選の投票率は、前回より下がる低調ぶり。安倍政権にとってはまずまず「計算通り」の展開だったのではないか。メディアも、いよいよ、どさくさ紛れの改憲に反対する覚悟を決めるべきだ。


「拗ね者」の精神を継ぐ

 元読売新聞社会部記者の本田靖春さんが2004年12月に71歳で死去して15年。昭和50年代後半から60年代に新聞記者を志した世代なら、「不当逮捕」や「警察回り」などの作品をむさぼるように読んだ経験があるはずだ。ノンフィクション作家の後藤正治さんが、担当編集者らに丹念に取材してまとめた評伝「拗ね者たらん 本田靖春 人と作品」(講談社)が昨年暮れ、上梓された。がんや糖尿病と闘い、両足と右目の視力を失いながら執筆を続けた最後の日々の壮絶さには息をのむ。最後の作品「我、拗ね者として生涯を閉ず」(講談社、2005年)は、本田さん自身「私はこの連載を書き続けるだけのために生きているようなものである。だから、書き終えるまでは生きていたい」と書きながら、最終回を残して絶筆になった。
 この作品を古書で入手した。読み終えて「もっと早く読んでおけばよかった」と思った。植民者の子として戦前の朝鮮で生まれ、敗戦後の引揚生活で苦労した。日本の植民地支配の実相も肌で知っていた。それらの経験が終生、戦争を憎み、戦争を招くものには徹底的にあらがう姿勢の土台にあった。根っからの平和憲法支持者だったことがよく分かった。
 本田さんは、社会部の黄金時代の終焉とともに1971年に読売新聞社を退社した。社会部の黄金時代とはどんなものだったのか、実例もふんだんに書かれている。だがむしろ、現在のマスメディアとそこで働く人たちにとって意義があるように思うのは、部内で声を上げる気風が急速に失われていきつつあった中で、本田さんが若手記者たちに説いていたという「野糞の精神」のエピソードだ(本田さん自身「下品になって恐縮だが」と断って紹介している)。
 「可能ならば、全員で立ち上がって戦ってほしい。できないなら、せめて、野糞のようになれ—」「野糞はそれ自体、立ち上がることはできず、まして、相手に飛びかかって噛みつくなぞは絶望的に不可能である。でも、踏みつけられたら確実に、その相手に不快感を与えられる。お前たち、せめてそのくらいの存在にはなれよ、—と訴えたのであった」
 管理強化が進んだ組織の中で、立ち上がって声を上げるのは大変な勇気が必要だ。皆が続いてくれるとは限らないし、孤立すれば居場所がなくなる。でも、もし「このままでいいのか」と思うのだったら、いきなり声を上げるのは無理でも、まずは本田さんが「せめてそのくらいの存在には」と書いたところから始めよう。そして仲間を増やしていこう。


「憲法くん」が求めるもの

 わたし、憲法くんは個人の自由が奪われないように、国を治める人たちが、自分勝手な政治を行わないように、歯止めをかけているんです–。
 芸人、松元ヒロさん(66)による一人芝居「憲法くん」を原案にした映画「誰がために憲法はある」(井上淳一監督)が今月27日から東京などで公開される。
 松元さんに代わって映画で「憲法くん」を演じるのは女優の渡辺美佐子さん(86)だ。「憲法には国家が暴走しないように権力者をしばる役割がある。それを聞いて、戦争を知る世代である私がこの役を演じる意味があると思った」
 東京で生まれ育ち、東京大空襲を経験した。毎晩のように鳴る空襲警報。ひもじい毎日。そして同じクラスで、思いを寄せていた少年がある日、姿を見せなくなった。「広島の親類の家に疎開し、原爆で命を失っていたことを戦後から35年を経て知った」という。自分は生き延び、俳優という道を歩んできた。戦争で命を失った人々への「申し訳ない」という気持ちが、平和を強く願う思いに結びついた。
 映画では、そんな渡辺さんが女優有志で始めた朗読劇「夏の雲は忘れない」にも視点を当てる。台本には被爆した子や母、元米従軍カメラマンの故ジョー・オダネル氏の手記などを盛り込み、作曲家の池辺晋一郎さん(75)が音楽を担当した。初演は2008年。以後、夏の時期に全国各地を公演でめぐってきた。だが、この朗読劇も「今年が最後」という。「体力的につらくなってきた。若い人たちの感覚で平和の大切さを表現してほしい」と渡辺さん。
 「理想と現実が違っていたら、普通は、現実を理想に近づけるように、努力するものではありませんか」と訴える「憲法くん」。平和をつくるために一人ひとりが行動する。それこそ、日本国憲法が私たちに求めることにほかならない。


忖度?思考停止? この改元狂奏曲

 ある程度予想されたことではあったが、ここ数日の朝刊各紙とテレビの情報番組による改元狂奏曲は、日本のジャーナリズムの弱さを改めて示すことになった。
 「令和」の典拠となった万葉集ブーム。ゆかりの太宰府で「歓喜の宴」。「令和」商戦。全国「令和さん」紹介……。社会面はほぼ奉祝記事で埋め尽くされた。政治面等で日本の歴史上初めて国書が典拠とされた背景に安倍晋三首相の強いこだわりがあったことなどの解説はあるものの、「一世一元」とは何か、国民主権との関係でどうなのか、という本質的な問いが欠落していた。おめでたい席に異論を唱えるのは差し控えるという「忖度」か、メディアで働く人間の思考停止がここまできてしまったのか。
 3月27日、弁護士や作家、フリージャーナリストが元号制定の差し止めを求めて東京地裁に提訴した。元号の制定は、国民を「天皇の在位の時間」に閉じ込めるから、憲法13条の「個人の尊厳」を侵害する。元号法は国民主権を根本原理とする日本国憲法の精神に真っ向から反する――。問題の核心を突く主張を記者会見で訴えたが、大手メディアやテレビのほとんどが黙殺した。
 歴史を駆け足で振り返ると、一世一元の制度は、1868年9月8日の明治改元の詔に記された。空間だけでなく、時間も天皇が支配することを狙った。「祭政一致国家」を目指した明治政府は、天皇の権威を高めるために天皇統治の正当性を神話に求めるなど、様々な仕掛けを用意し、一世一元もその一つだった。日本国憲法の制定で主権は、天皇から国民に移る。一世一元の見直しは論理必然であり、1979年制定の元号法をめぐって、国民主権の観点からも激しい議論が起きた。そんな過去は忘却の彼方にいってしまったかのようだ。
 新天皇が即位する5月以降、「剣璽等承継の儀」や「即位礼正殿の儀」、「大嘗祭」が続く。すべて政教分離や国民主権との関係で問題をはらんでいる。「忖度」「思考停止」は、ジャーナリズムの自殺である。


AMラジオ「廃止」でいいのか

 日本民間放送連盟が、現在のAM放送からFM放送に乗り換えることができるよう総務省に制度改正を要望した、と報じられた。現在、多くのAM局が難聴対策や災害対策のために「ワイドFM」としてFMの周波数帯でも同じ番組を放送していること、AMはFMに比べて大規模な送信所どが必要なため設備更新には多額の費用がかかることから、放送事業者の判断でFMに一本化できるよう求めるものだ。2028年の再免許時までの実現をめざすという。
 ラジオ局は確かにどこも経営が苦しく、大規模な設備更新やAM・FMの並行運用がたいへんだ、というのは理解できる。しかし、いきなり「AMラジオをやめます」というのは、多くのリスナーにとって文字通り“寝耳に水”だろう。ツイッターなどで反対の声が沸き上がったのも無理はない。
 FMでも同時放送しているから、と言っても、各地のワイドFMはまだ普及の途上で、周波数の周知も十分ではない。またFMの高周波数帯までカバーできる受信機がなければ聴取できない。ラジオ局の負担軽減のために受信機買い替えをリスナーに強いる、ということでいいのだろうか。
 FM波は波長が短くて送信設備が小さい分、電波の届く範囲がAM波より狭い。このため、遠くまで電波を飛ばすためには中継局を増設しなければならないはずで、これが逆にラジオ局への新たな経営的負担になることも考えられる。
 最近はスマホのラジコアプリで聴いているリスナーも多いと言われるが、災害などの非常時に情報インフラとして頼りになるのは、乾電池でも長時間作動できる小型のラジオ受信機だ。災害の多いこの国で、繰り返しラジオメディアの重要性が確認されてきたことを、放送事業者はどう受け止めているのか。
 広告収入の落ち込みを、人減らしや番組制作費の削減でごまかして、その結果としてラジオ媒体の魅力を自ら低下させてきたツケを、リスナーに転嫁するようなことは許されない。この機会にラジオの魅力を再認識してもらうような、いわばピンチをチャンスに変える発想をラジオ関係者に求めたい。