今週のひと言

マスメディアの「終わり」

 参院選の後、メディアに関して聞かれたことばたち――。

「開票速報とか、選挙特番とか、投票を締め切った瞬間に『安全地帯』で報じてチマチマと速さを競っている日本のメディアの体質に、心の底から失望というかどっちらけしていて、あまり見る意味もないなあと感じている」(茂木健一郎)
「選挙終わってから候補や政党や支援団体のことを特番で見せられてもどうしろと言うんですか?遅いだろう!全く役に立たない」(デーブ・スペクター)
「メディアの皆さんはまもなく、あなた方の存在基盤が失われつつあるということを認識してほしい。大学だってそう。いろんな既存のシステムが崩れ始めていることをメディアが認識し対応しないと、この国ごと崩れてしまう」(安富歩)

 投票率は48%そこそこという低調さ。その背景の一つとして、メディアの選挙報道も挙げられるだろう。とくにこの間のテレビの選挙報道は、質・量ともに極めて乏しい印象しか残らなかった。
 NHKは、参院選に関するニュースでは「安倍政権の評価が問われた参議院選挙」というフレーズを常套句にしていたが、実際どれだけ政権評価に関わる報道をしたと言えるのか。一方の民放も、恒例の「池上無双」も今回は神通力が通じなかったようで、開票特番は大した盛り上がりもなかった。
 テレビや新聞が「オワコン」と言われてすでに久しい。マスメディアの「終わり」は時間の問題なのかもしれないが、メディアに関わる人々がそれをしっかり受け止めていれば、そこから再生の道も見えるはずだ。これは現場の記者たちよりもメディア企業の経営者たちにこそ訴えたい。


「有志連合」を選挙の議論に

 中東・イラン沖などを航行する民間船舶の護衛のためとして、米政府が目指す「有志連合」に日本は参加するのかどうか。米国は19日にも説明会を開き、日本は駐米大使館が対応、イランも「ペルシャ湾の緊張緩和にはつながらない。イランは歓迎しない」と、有志連合に参加しないように要請してきている。
 参院選の最中とあって、問題にされにくいテーマだが、日本の平和に関わる重大な問題だ。トランプ政権はどうでも参加を求めてくるだろうが、「武力行使の3条件」に合致する事態ではなく、集団的自衛権の発動には無理がある、としても、戦争法を成立させ、憲法を変えようといっている安倍首相が、はっきり「憲法上できません」と断れるのかどうか、いささか心許ないと考える人は少なくないだろう。
 戦争のための有志連合ではなく、「船舶護衛」というのがクセ球だが、各紙の社説は、「中東有志連合 緊張緩和の努力が先だ」(朝日)、「大義があるか見極めが大切だ」(毎日)、「米追従では緊張高める」(京都新聞)などに対し、読売は「米国の意向や国際情勢を見極めて、慎重に判断する必要がある。ホルムズ海峡は、日本が輸入する原油の8割が通過する海上交通の要衝だ。国益に資する国際貢献のあり方を考えたい」と迎合的だ。
 この参院選、問われていることは多いが、この有志連合参加問題と、トランプ大統領が提起した日米安保問題についても、選挙の争点として議論されなければならない。せっかくイランを訪問して和平の仲立ちをするつもりだった安倍首相はどう考えるのか。有志連合などに参加すれば、まさに米国の戦争に巻き込まれることになるのではないか。
 「戦争にしない」―その努力こそ、有権者の選択に向けて、メディアが語らなければならないことである。

米、日本に有志連合への協力打診 イラン沖で船舶護衛
イラン緊迫 政治 中東・アフリカ 北米
2019/7/11 2:00
日本経済新聞 電子版

米国は他の同盟国にも呼びかけており、今後、数週間以内に参加国を決める方針だ。日本政府は米側の具体的な要請を見極めながら、参加の是非や参加する場合の法的な枠組みを判断する。

【テヘラン共同】中東のホルムズ海峡周辺で米国が船舶警護の有志連合結成を呼び掛けていることを受け、イランが日本や英独仏を含む少なくとも7カ国に対し、と外交ルートで通告し、有志連合に参加しないよう促したことが18日、分かった。複数のイラン政府筋が共同通信に明らかにした。
 各国大使館などを通じて口頭で意向を伝えた。有志連合構想では日本など米同盟国の対応が焦点だ。伝統的な友好国のイランから不参加を促された日本は、イラン包囲網の構築を目指す米国と板挟みの形となり、難しい対応を迫られている。


立ち上がった演劇、映画人

 官邸とメディアの裏側を題材にした映画「新聞記者」がヒットを飛ばしている。先月28日の公開から興行収入は早くも2億円を突破。13日からの連休でさらに勢いづきそうだ。
 ダブル主演の一人は、韓国の女優で日本語が堪能なシム・ウンギョンさん。新聞社の社会部記者役で、父は日本人、母は韓国人で米国育ちという設定。もう一人の松坂桃李さんは、外務省から内閣情報調査室に出向中の官僚を演じる。原案は、東京新聞の望月衣塑子記者の同名の著書。河村光庸・エグゼクティブプロジューサーが企画・製作を担い、32歳の藤井道人監督を起用して政治サスペンス映画を完成させた。
 「国境なき記者団」(本部・パリ)が毎年発表している各国の自由報道度ランキングで日本は昨年、180カ国・地域のうち67位。その前年は72位で、2002年の26位に比べると著しく転落した。安倍政権下、「言論の表現の自由が窮屈になってきた」と感じ、記者らの姿を通してこの閉塞感を描こうとしたのが、劇作家の永井愛さん主宰の「二兎社」による演劇だ。テレビの報道現場を舞台にした「ザ・空気」(17年)と、続編で国会記者会館に視点を当てた「ザ・空気ver.2誰も書いてはならぬ」(18年)が予想以上のヒットを放ち、映画界では「新聞記者」が登場した。
 この数年、日本で起きている官邸の横暴、忖度(そんたく)に走る官僚、それを平然と見過ごす一部メディア。「最後の砦である新聞でさえ、権力の監視という役目が薄まっている」と河村さんは指摘する。
 権力に抗う記者の姿を描いた作品に関心が集まるのは、言い換えれば新聞やテレビなどのマスメディアへの信頼が揺らいでいることにほかならない。「表現の自由」を掲げて立ち上がった演劇人や映画人といまこそ共闘するときだ。


にせの争点にだまされるな

 参院選が4日公示された。安倍晋三首相は、通常国会が閉会した6月26日の記者会見で、「憲法の議論すらしない政党を選ぶのか。自分たちの考えを示し、議論を進めていく、その政党や候補者を選ぶのか。それを決めていただく選挙だ」と改憲への姿勢が選挙の争点の一つだと強調した。
 にせの争点化である。
 「憲法改正問題」と「憲法問題」はまったく別ものである。多くの野党が拒否しているのは、9条への自衛隊明記など合理的根拠を欠く自民党の改憲4項目の土俵に乗ることであり、政党として合理的な選択である。
 私たち有権者がいま考えるべきなのは、真の「憲法問題」である。例えば、解散権の乱用。安倍政権は、野党議員を揺さぶる手段として解散権を党利党略のために使っている。解散制度の趣旨に反し、いかに制限をかけるかは待ったなしの課題だ。
 2017年の総選挙を振り返ると、安倍政権は憲法53条に基づく野党の臨時国会要求を90日以上も無視し続けた揚げ句、臨時国会を開くや、冒頭で解散に踏み切った。憲法53条違反と解散権の乱用という二重の意味での憲法の蹂躙が行われた。
 憲法9条に関する従来の政府解釈を自己都合で変え、集団的自衛権を行使できるようにして生まれた安全保障法制は、違憲の存在である。政府解釈を2014年7月の閣議決定の前の状態に戻すことも依然、課題として残っている。
 この秋に行われる大嘗祭は、その宗教的性格から憲法の政教分離に違反する疑いがある。大阪高裁も「政教分離規定に違反するのではないかとの疑義は一概には否定できない」と指摘した。何より、皇族である秋篠宮が、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と述べ、政府は公費を支出するべきではないとの考えを示している。
 安倍政権による権力の乱用や政教分離をどう考えるかという、真の「憲法問題」の議論を深めるべきだ。野党もメディアも、安倍政権の権力の乱用を参院選の争点の一つに据えればよい。安倍首相が作り出すにせの争点に踊らされてはならない。


負けるわけにはいかない

 過去に書いた記事を「捏造」と書かれて、大学の職を失い家族の生命の危険にまでさらされた元朝日新聞記者・植村隆さんが、「捏造」と書いた研究者・西岡力氏らを名誉棄損で訴えた裁判は、東京地裁で棄却の判決を下された。西岡氏の「捏造」との表現により植村氏の名誉が毀損されたことは判決で認められたが、西岡氏の記述には「推論として一定の合理性がある」などと、真実と信じるに足る相当性があるとして免責した判断だ。
 しかし、真実相当性があるとして免責を認めるためには、その報道された事実を基礎づける確実な根拠・資料が必要だというのがこれまでの判例で、今回はそのような根拠や資料がないばかりか、植村さん本人への取材もなく、「捏造」というジャーナリストにとって死刑判決にも相当する強い表現を用いたことを、判決はまったく問題にしていない。これは従来の判例も踏まえていない異常な判断だと言わざるを得ない。
 この裁判の過程で、西岡氏本人への尋問により、西岡氏自身が、自ら名乗り出た元慰安婦の金学順氏の証言を勝手に創作して自説を補強していたという、まさに「捏造」と言える行為を自ら行っていたことも明らかになった。今回の判決は、これらの立証も黙殺した。
 この裁判を担当し、判決直前で異動となった原克也裁判長は、昨年11月に結審した後、今年2月に突如弁論を再開して、朝日新聞の誤報を検証した「朝日新聞第三者委員会報告書」を証拠採用し、判決に利用している。これは、原裁判長は初めから植村さんを敗訴させるために、あえて弁論を再開して、西岡氏らに有利な証拠を採用したとしか思えない。しかも、人事異動が行われた後の4月に、わざわざ最終弁論を開いてもいるのだ。この執念はいったい何なのか。そこまで裁判官は政治に忖度しているのか。
 このような司法・政治による圧力に、ジャーナリズムが負けるわけにはいかない。


「老後2000万円不足」報道の落し穴

 政府の施策をいかにも、広く意見を聞いたように見せかけるために組織するのが「審議会」だと思われてきた。だから、設置する側は必ず、メディアから人を入れ、風当たりを弱くする。政府が管轄した「審議会等」は、昨年9月1日現在で129。金融審議会もそのうちの一つだった。
 「退職した65歳の夫と専業主婦の60歳の妻という老人世帯で、30年生きるとすると、必要なのはあと2000万円」という「市場ワーキング・グループ」の「高齢社会における資産形成・管理」報告書は、麻生太郎財務相が受け取りを拒否、それが官邸の指示だったこともわかって大問題になったが、現実は報告書が言うとおりで何の間違いもないし、問題はそれだけではないことが問題だ。
 つまり、この統計は、学業を終えて企業に就職し、サラリーマンとして、専業主婦の妻に支えられて老年を迎えた夫と妻を想定している。しかしいま、さらに、これから例えば10年後、そういうモデル夫婦がどのくらいいるのだろうか、ということだ。いま、非正規の労働者は全労働者の3分の1を超えてしまい、年金に対する若者の信頼は著しく低下しており、国民年金の納付率は実質40%といわれている。
 長年企業で働いてきた人が2000万円必要なら、国民年金だけの高齢者はどうなっているのか、例えばこれから老年を迎える団塊世代以後の人たちの年金はどうなるのか。
いまの年金制度が破綻してきているのは、もう、言うまでもないことだ。メディアはこの報告に、そこを突いて、政府の無策を糺すべきだ。「財源がない」と言うだろう。そんなことはない。いらない、無駄な兵器の爆買いをやめて、本当に困っている人たちから、改善策に手をつけるべきではないのか。
 改めて、自分の老後の家計を計算し、年金を考えよう。そう呼びかけ、政府の施策の間違いを糺すのがメディアの仕事だ。


NHK「ネット進出」に注文

 NHKがインターネットに24時間放送と同時に配信できるようにする放送法改正が成立した。ネットも含めた「公共メディア」を標榜するNHKの役割について、あえて問題提起してみたい。
 放送法15条によってNHKは「あまねく放送」の義務を負っている。これは、日本全国どこでもNHKの放送がちゃんと受信できるようにすることを法律で義務付けたものだ。「公共放送」であるNHKは、受信できない地域が残されていることは法的に認められていない、ということで、NHKの各放送局には、民放にはない「受信技術」というセクションがあり、この担当者は放送エリア内の地域を回って、視聴者がNHKの放送波をちゃんと受信できているか確認し、受信状態がよくない場合にはアンテナを増やすなどの対策を講じなければならないことになっている。
 では、インターネットの世界ではどうなのか。インターネットのインフラは民間の通信事業者などによるもので、NHKの受信技術はそこまで関わることはない。通信網の整備にNHKの予算を使うことは、放送法に定められた業務範囲からは想定されていない。
 しかし、ネット上にNHKの番組を提供するだけで「公共メディア」の役割を果たしている、というのは、ずいぶんおめでたい話ではないのか。コンテンツをネット上にアップするだけなら、やっていることは一般のネットユーザーとあまり変わらないのではないか。NHKが「公共メディア」の使命として、たとえば通信インフラ整備にも積極的にかかわって、投資して、災害時にもちゃんとNHKの情報があらゆる回路を通じて届けられる、というような、新しい「あまねく」概念を打ち出してこそ「公共メディア」の名にふさわしい存在になれるのではないか。
 もっとも、政府の言う通りの「忖度」メディアが巨大化するだけなら、そのほうが弊害が大きいかもしれないが。いずれにしても、「公共メディア」概念について、NHKは視聴者に対する説明が足りない。


憲法の意味する平等社会

 台湾で24日、アジア初の同姓婚を認める特別法が施行された。この日、早朝から全土で受け付けが始まり、カップルが続々と婚姻の届け出をした。
 性的マイノリティーと呼ばれる「LGBT」は、レズビアン(女性同性愛者)
▽ゲイ(男性同性愛者)▽バイセクシュアル(両性愛者)▽トランスジェンダー
(生まれ持った性にとらわれない人)のことだ。最近では、女性でも男性でもなく生きるジェンダークィアが加わり、「JGBTQ」という新たな呼び方が使われるようになった。
 日本で2016年に公開された米映画「ジェンダー・マリアージュ」は、同性婚をめぐる裁判で勝利したカリフォルニア州の2組のカップルを追ったドキュメンタリー。同州は08年5月、マサチューセッツ州に次ぎ同国で2番目の同性婚合法州となったが、半年後には結婚を男女に限定する州憲法修正案「提案8号」が議会を通過。訴訟はこれを「人権侵害」と訴え、米最高裁で婚姻の平等が初めて争われたケースとして注目を浴びた。
 日本でも、同性同士の婚姻を認めない現行法が憲法の「婚姻の自由」(24条)などに違反すると主張して13組の同性カップルが今年2月、国を訴えた。
 だが、教育現場では、トランスジェンダーを自覚する子どもたちが、教師らの無理解により不登校になる場合がある。トランスジェンダーに関するアーカイブ(資料や記録の保存)の整備に力を入れるカナダ・ビクトリア大学のアーロン・
H・デボー教授は昨春の来日時の講演で、「世の中には多様な性がある。子どもたちには自己を探求する自由や環境が保障されなければならない」と強調した。
 日本国憲法は、すべての子どもに等しく教育を受ける権利を保障(3条)している。婚姻の問題も24条の「両性の合意のみに基づいて成立」についての解釈の問題はあるが、その本質は個人の尊厳と平等を保障することだ。異性、同性にかかわらずカップルが自由に婚姻を選択できる社会になることが、憲法の理念に沿う姿ではないだろうか。
 台湾でも、法制化までには当事者らの長い闘いがあったはずだ。社会にはさまざまな人がいて多様な考え方がある。それぞれを認め合い、対話することから、この社会を変えていこう。


「戦争しなければ…」ということ

 日本維新の会の丸山穂高議員の「戦争しなければ、領土は返らない」発言は、大問題だ。さすがに維新は除名処分にしたが本人は、「言論の自由だ」と開き直っている。国会で辞職勧告決議案をという提案にも、何と「先例になるのは困る」とまとまらないらしい。要するに、同じような感じを持っている人たちが多い、ということなのか? 変な議員がいるのは、それを支持する人が少なからずいるということだ。この際、この問題をじっくり考えてみなければならない。 
 日本国憲法は「再び政府の行為によって戦争の惨禍が起こることがないように」と、「主権在民」や「戦争の放棄」を決め、天皇以下大臣や議員、公務員に「憲法擁護義務」を課した。戦争好き、戦争は必要だと思っている人は、議員や公務員にはなれない。それは「言論の自由」「思想の自由」に抵触する話ではない。
 国際的には、1928年の不戦条約があり、いまそれで世界が動いている国連憲章がある。そんなものはそっちのけ、の戦争があることも事実だが、日本は「戦争をしないと決めた国」なのだ。
 日本には、まだ「丸山議員的感覚」が残っている。いま、外国の戦争が報道される。その中で、「日本は戦争しないのだ」という考え方を改めて培っていくことが大切だ。
 領土問題だとやたらに強硬論が出る傾向がある。しかし、どの問題でも、まず大事なのは、実効支配。北方領土はロシア、竹島は韓国、尖閣諸島は日本が実効支配している。それが原則だ。意見の違いを認めた上で、どう現実的に解決するのか。方法は話し合いしかない。そのためには、国際司法裁判所での解決も一つの方法だが、基本は話し合い。戦争、つまり武力行使は論外なのだ。


天皇制論議をタブーにするな

 4月から5月にかけて「改元・天皇代替わり」の一連のイベントが行われました。この間のマスメディア、とくにテレビはまるでお祭り騒ぎのようだった。NHKは『平成紅白歌合戦』や『ゆく時代くる時代』などと、年末年始を思わせる長時間の特番をはじめ、特別編成で二日間を放送した。
 天皇の交代によって年号を変えるという習慣を残しているのは世界でも日本だけということで、近代国家と天皇制はどのように相容れるのか、また国民主権を掲げる日本国憲法と天皇制はどのような関係にあるのか、国民的な議論を起こす絶好の機会だったが、テレビはただ大騒ぎをするばかりで、せっかくのチャンスをふいにしてしまった。
 まったくメディアに登場しなかったのは、天皇制そのものの是非に関する議論だ。
 戦時中の「慰安婦」問題を追及し、資料収集・展示などをしているアクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」は、退位の日の4月30日に「天皇制は、自由と平和、平等と民主主義に反する制度です。日本の戦争責任、植民地支配責任を果たすためにも、日本人が自らの手で天皇制に終止符を打つ、その歩みをみなさんとともにこれからも進めていきます」とするアピールを発表した。また即位の日の5月1日にも、天皇制を批判する講演会やデモが都内など各地で行われたが、テレビ各局のニュースなどでは触れられなかった。
 天皇制に対する批判があるという事実すら報道されない状態では、天皇制の今後を考えるための冷静な議論は期待できない。実際、天皇制に関する問題はマスメディアではタブーのようになっている。こうした現実が、日本における表現の自由を息苦しいものにしている側面もあるのではないか。天皇制論議をタブーにしてはならない。